ありがとう

 「ありがとう」

 こんなに、だいじなことばがある。

 

 吹き抜けた四月の風に、舞い散った白いレポートの束。

 あなたと、はじめて出逢ったときのことば。

 たまたま拾ったわたしにくれた、あなたのことばと、笑顔。

 好きです。あの日から、ずっと。

 

 グラウンドを駆けるあなたが、五月の光を突き抜けてゆく。

 見かけるたびに気になって、だけど、なにも言えない。

 こんなに想っていても、想いだけではなにも伝わらない。

 伝えるために必要なのは、ことば。

 

 穏やかな六月の、やるせない気持ち。

 たとえ地球とだって、引きかえにしてかまわない。

 そこまで想っているから、言うのがこわい。

 あなたの気持ちを知るのがこわい。

 

 七月からの、短い別れ。

 休みが終われば、またすぐに逢えるのに。

 もしいるのなら、神様。お願い、わたしに、勇気をください。

 たったひとつのことばを、伝える勇気を。

 

 それは偶然の八月。

 街ですれちがったあなたは、真っ黒に灼けていて。

 口に出しかけた言葉を、わたしはのみこんだ。

 この一瞬の幸福が、壊れてしまいそうな気がしたから。

 

 九月になれば、またあなたと同じ校舎。

 あたりまえのことに、こんなに感謝しています。

 あなたはわたしに、気付いていますか。

 あの日の出逢いを、まだおぼえていますか。

 

 十月の、ひたすら、ひたすら青い空。

 フォークダンスの輪は、大きく、大きく回りつづける。

 短すぎる音楽に、たったひとつの点は届かない。

 なぜでしょう、どこかほっとしたのは。

 

 文化祭は十一月でした。

 あなたのクラスの展示を、わたしは一日じゅう見ていたかった。

 あなたに気付かれたくて。

 他の誰にも、気付かれさえしなければ。

 

 恋人たちの十二月。

 澄んだ星空を、わたしはひとりで見上げています。

 あなたの生まれた星が、どこかにあるような気がして。

 その星に生まれなかったことが、悲しすぎて。

 

 一月。時間が、もうないんです。

 きっともうすぐ、わたしたちは別々に歩きはじめる。

 その前に、その前に、言わなくちゃいけない。

 わたしの、だいじな、ことば。

 

 一年に一度のチャンス。二月の、たった一日が。

 それを手にするだけで、胸が破れてしまいそうな。

 立ち上がって、勇気を出して、何度も一歩踏みだしかけて。

 そして――なにもできなかった。

 

 最後の、三月。今日で、最後だから。

 もう、こわくない。なにも、こわくない。

 言わせてください。あなたが、あなたのことが。

 「好きです。あの日から、ずっと」

 

 「ありがとう」

 そして、こんなに、哀しいことばがある。

'94/05/26
相生浩史

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