熱き想い

 音楽室からピアノの音が流れてくる。耳慣れた曲、“熱き想い”。

 さとみのオリジナルナンバーだ。

 ぼくはそっと音楽室のドアを開け、中に入った。さとみはそれにも気がつかないかのように、一心にピアノを引き続ける。

 サッカー部の歓声とも、演劇部の練習とも遮断され、午後の光の中に聞こえるのはさとみの奏でるメロディーと、ぼくの鼓動だけ。この瞬間が、ぼくは好きだった。そのために、好きで入った園芸部にもろくに出ず、こうして毎日音楽室にかよっている。

 やがて最後のリフレインが終り、ぼくはわずか残念に思いながらゆっくりと拍手をする。さとみはにっこりしてぼくの方を見た。

 春一番が、窓の外のプラタナスをゆらして去っていった。

「どお?」得意げに、さとみはたずねる。

「自信が出てきたね。コンクールは大丈夫そうだな」ぼくは答えた。じっさいのところ、ぼくは一度だってさとみがコンクールで失敗するだろうなんて思ったことはない。いつだってさとみは、ぼくから見れば完璧としか思えないような演奏をする。でも本人に言わせれば、いつだって自分なんかまだまだ、なのだ。だからぼくは、さとみにもし問題があるとすれば、それはその自信のなさなのだ、と答えていた。

「ふふ、のべつ孝志が励ましてくれるからね。うっかり自信をつけちゃった」

 さとみが楽しそうに笑うのを見て、ぼくは幸福な気持ちになる。

 

 You make me happy.

 

 ぼくはさとみに恋をしているのだろうか? そうかもしれない。恋するものの特徴は、いつでも相手が自分のことをどう思ってくれているのか、気になって仕方ないところにある。ぼくはそれを口に出してさとみにたずねる勇気がない。もし嫌われていたら、もし好意を持っていてくれなかったら。そんなばかなこと、と思いながら、そう考えるのがなによりも苦痛で、恋するものをいつも臆病にしてしまうのだ。

「じゃあ、がんばれよ。ぼくは温室の方見てこなきゃいけないから」

 音楽室の扉を閉めるのは、いつもつらかった。

 はじめてさとみに逢ったのは、高校の入学式のときだった。遠くの街の私立高校にはいって、知っているものは誰もいない。式場から出てきた同級生たちは大半が付属中学校からの持ち上がり組で、すでにグループができあがっている。ぼく一人徐け者のような心細さを味わっていた。

 昇降口で、自分の番号の下足箱に手をかけたとき、同時に手を伸ばしたのがさとみだった。

[あれ、ここはぼくの……]

[え? ああ、間違えちゃった]

 いたずらそうにさとみは笑って、舌を出した。その表情が、以来ぼくをとりこにしているのだ。

 あとで聞いたら、そのときさとみはわざとやったらしい。それが、単に見知らぬぼくへの好奇心だったのか、別の意図があったのかは聞いていないが。

 園芸部に入って、最初にぼくがつくった花をさとみに渡したのはいつのことだったろうか。音楽の授業でさとみの演奏を最初に聴いてから決めていたことだ。離れになっている音楽室から出てくるさとみに、偶然を装って持っていた花を渡したのは。「コンクールのときみたいだね」そういって二人で笑いあい、アンコールと称してもう一度ピアノの前に戻ったさとみが、即興で弾いた曲が“熱き想い”の原型だった。

 

*       *

 

 音楽室に、低いピアノの旋律が流れている。新しい曲、まだ名前もついていない。

 冬の雨が、ぼくの心を閉ざしている。さとみと出会ってから、もう2年半になる。おたがいに進む道が違う、そんなことは判っていた。ぼくは大学部の理学部へ、さとみは音楽大学に、それぞれ推薦が決っている。“熱き想い”でコンクールに入賞してから、さとみは引く手あまただった。ぼくは、好きな植物研究の道を歩みたいという考えを変えなかった。さとみと植物と、どちらが大事なのか? そんなことは判り切っている。だが、ぼくが音楽大学に行けない以上、おなじ道をこれ以上進むことはできない。

 いや、最初からさとみは音楽学校にいくべきだったのだ。二人が出会わなければ、ぼくがこんなに苦しむこともなかったのに。そんな理不尽な想いすら浮かぶ。

「お別れだね」

 演奏中に、ぼくが口をはさんだのははじめてだったろうか。

 ピアノの音が途絶えた。

「え?」

「もうすぐ卒業だ。もう一緒にいることはできなくなる」

「どうして? 遠くに行ってしまうわけじゃないのに。いつだって逢えるじゃないの、いつだって、いつも一緒だったのに」

 さとみの眼からは、いまにも涙がこぼれ落ちそうだ。

「不自然だよ。いつまでもこんな状態を続けてはいられない」

 さとみは黙ってぼくを見つめている。この瞳を、ぼくの、ぼくだけのものにできたなら。

「ここで、こうして君のピアノを聴いているのが好きだった。ほんとに、好きだったんだよ」

 ようやく、それだけいって眼をそらし、ぼくは音楽室を飛び出した。さとみの顔を見ていると、近付いてくる別れのことを考えないわけにはいかない。それはとてもつらいことだから、いまはさとみと少しでも離れていたかった。

 別に、ぼくがいなくったって構わないんだ。さとみみたいな美少年なら、すぐにガールフレンドぐらい作れるだろう。

 足音が追いかけてくる。ついてこないでくれ、という思いと、もっと近くにいたい、という想いと。ぼくの足は鈍りがちになる。

 校舎の裏手の芝生を越えて、温室の手前の百葉箱のところで追い付かれた。ぼくの方が、細身のさとみよりはるかに足が速かったはずなのに。

「孝志」

 ぼくの両手を握りしめて、さとみは真剣な眼でぼくを見つめる。涙と雨の区別がつかない、さとみも、たぶんぼくも。

「好きなのは」泣きながら、さとみはぼくの胸に身を投げ出した。「同じなのに。あなただけじゃないのに」

 しゃくりあげる肩をそっと抱いて、もう一度ぼくはさとみの瞳を、今度は真正面から見つめる。熱き想いは一つだった。二人の唇がそっと近付く。

 冷たい雨が、ぼくたちの体をいつまでも叩いていた。

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