直前の情景

 狂ったようにおれは、キーを叩き続けていた。

 〆切まであと一日。正確には二十六時間と二十五分。いま二十四分になった。いや、こんなことを数えている間に原稿を仕上げなければ。

 もう三十時間ぐらい眠っていない。たぶん三十時間ぐらいだ。一回ぐらい寝る機会はあるだろうか。寝てしまえばそのまま、最後まで寝てしまいそうな気がして、それが怖くてしかたない。

 タバコに火をつける。あと三本。ディスプレイの上にあるカートンボックスには四箱残っている。仕事を始める前に一カートン買ってきたのだが、この調子だと足りなくなりそうだ。買いに行く余裕はあるだろうか。いや、こんな下らないことを数えている間に原稿を仕上げなければ。

 内容は、完璧に頭の中に出来上がっている。あとは手を動かすだけだ。わかっている。おれなら、一時間に四百字詰めで最高五枚のペースで書ける。余裕をみて仮に四枚だとしても、あと二十六時間と十八分あれば楽に仕上がるはずだ。だが、ここで気を抜いて手を休めてしまえば、テンションが下がって絶対的に間に合わなくなる。休んじゃだめだ。書くんだ。書き続けるんだ。

 ちょっとした表現なんかに気を使っている余裕はない。ここんとこの「が」が「は」だって、意味は変わらない。効果だって変わらない。むしろ、「は」にした方が内容はうまく伝わるはずだ。

 いや。本当にそうか。やはり「が」にした方がよかったんじゃないのか。ほら、読み返してみろ。もう三行前だ。いま直さないと、直すことを忘れてしまうぞ。そんなことでいいのか。いいんだ。忘れてしまうような違いだったら、どっちだって効果は変わらないはずだ。そりゃおれには、最高のものを読者に提供する義務がある。誰が決めたんでもない、おれのプライドに対して負った義務がある。だがその義務は、「は」ひとつで揺らぐようなものじゃないはずだ。どう書こうと、それはおれの才能の結果なのだから。

 おかしな理屈だ。おかしな理屈をこねているひまはない。あれは、あれでよかったんだ。ほら、もう「あれ」になった。なにをどう直すつもりだったのかも忘れているじゃないか。

 しまった。おかしなフレーズを書いてしまった。フレーズ自体がおかしいんじゃない、そんなものをこのおれが書くはずがない。なにかの歌詞に似ているんだ。聞き覚えのある歌の一フレーズだけが、おれの脳味噌の中を暴れまわりはじめた。ずいぶん昔の、CMソングの一節だ。妙に耳に残るだけの、おれにとってなんの意味もないフレーズの乱舞。くそ、どうすればいい。意味のないCMソングに気をとられて、文章に集中しきれない。

 CDをかけよう。なにか気に入っているCDをかけよう。少しでもおれにとって意味のある曲が、この無意味さを消してくれるはずだ。

 なにがいい。なんの曲がいい。クラシックか。だめだ。モーツァルトでも聴いてリラックスするつもりか。そんな余裕がどこにある。せめてベートーベンだ。交響曲だ。百人のオーケストラのフォルテシモだ。だが、フォルテシモだけが続く曲なんかない。いずれにしても第二楽章で眠くなってしまう。ふだんならそんなことはなくても、この状況ではあり得るのだ。少しでもテンションを下げるわけにはいかない。

 ジャズか。スウィングか。これもだめだ。気分じゃない。そんなに明るい気分じゃない。じゃあ、ブルースか。R&Bならどうだ。これ以上暗くなってどうする。ファンクならまだしもだろうが、聴き飽きてしまったものばかりだ。くそ。どうしてもっとCDを揃えておかなかった。

 けっきょく、アニソンになってしまった。懐アニのアンソロジーだ。少なくとも、その単調な強烈さに身を委ねることだけはできる。ヘッドホンから洩れそうなボリュームで、勇気と正義と勝利と希望と愛が叫びを挙げている。オーケー、これでもうなにも余計なことは考えなくて済む。あとはひたすら、書くんだ。

 CDをかけたついでに、コーヒーメーカーもセットしてきた。十分ほどで出来上がるはずだ。もっとも、それを飲めるのはいつになるかわからない。もういちど台所に行くきっかけが、いつ生まれるか。いまはただ、キーを叩き続けることだけしかできない。叩き続けられるように、自分を調整したばかりなのだ。

 いいぞ。いい調子だ。この調子で続ければ、完璧な文章が出来上がっていくはずだ。問題はない。なにもない。ないはずだ。違う。これは誤変換だ。クソ辞書、なんでこんな単語も知らない。もう八年も使ってやっているのに。FEPをバージョンアップするたびにコンバートして、完璧におれのための辞書になっているはずなのに。すると、なんだ。おれはこの単語を、知っているのに八年も使っていなかったのか。単漢字。単漢字変換。出てこない。この読みじゃないのか。

 コード表を引く。この方が早い。さんずいだ。さんずい。ない。見あたらない。なぜだ。なぜない。JISで規定されていないのか、こんな字が。JIS規格を決めた連中、なにを考えてやがるんだ。こんな当り前の字を、なぜ規格に含めておかない。JIS漢字コートだって、何度も改訂されているだろう。このぐらいの字、含めておくことはできたはずだ。なぜしなかった。いまこの瞬間、ここでこのおれが困る可能性を考えていなかったのか。

 しょうがない、ここの言い回しを変えよう。おかしい。しっくりこない。だが、しかたない。ここで、こんな一文字のためにもたもたしてはいられない。あと二十五時間と五十三分だ。予定より少し、ペースが落ちている。ここまで三十一時間の平均で、ええと、一時間あたり三枚半ぐらいか。遅い。遅いぞ。なにをしている。これじゃ、間に合わない。いや。いや。そんなことを考えてはいけない。考えているひまに、書け。

 キーを叩く。叩き続ける。いいぞ。その調子だ。タイプのスピード自体に問題はない。そのために、五年もローマ字入力でやっていたのに、わざわざ親指シフトを覚え直したんだからな。あの努力がむくわれるとしたら、いまこうして目にも止まらぬスピードでタイプを続ける結果によってだ。ここで結果が出なかったとしたら、おれのこの三年間の努力は完全に無駄になってしまう。書き続けるんだ。そして、間に合わせるんだ。なにがあっても、なんとしても。

 ここ、漢字か。ひらがなか。いいや、ひらがなだ。下手に変換して候補を探す時間が惜しい。いや、もちろん、表現としてもひらがなで正しいのだ。そうだよな。おれは間違ってはいない。時間が惜しいからじゃないぞ、決して。

 いいぞ。いい調子だ。この調子で続ければ。指が動く。勝手に動く。ほら、あっという間にもうこんなに書いた。ここまでだって、ずいぶん書いている。おれの努力の成果だ。もう半分になったか。まだか。まだ、内容も枚数も半分にはなっていない。だが、すぐだ。すぐ半分に達する。そして三分の二になり、五分の四になり、十分の九になって、完成するのだ。完璧な原稿が。〆切の前に。

 そうなったら、どうしようか。ゆっくり読み返して、おかしなところがないか確認する。もちろん、あるはずがない。そしてファイルをセーブして、アーカイブにして、通信ソフトを立ち上げてメールを送る。あっという間だ。そこまで終われば、あとはなにもしなくていいのだ。好きなことをしていいのだ。ゆっくりコーヒーを飲もうか。いや、もうコーヒーはいらない。さっきから何回、コーヒーメーカーをセットしたか。半分あった粗挽きの豆が、もう缶の底が見えている。これ以上飲みたくはない。

 とりあえず、寝るか。ゆっくり、寝るか。モーツァルトを聴きながら、柔らかい布団に横たわって、ぐっすり眠るか。ほら、布団がそこで待っている。デスクの隣で、ちょっと目を向ければ見えるところで、身体に馴染んだおれの布団が、おいでおいでをしている。そういえばシーツをそろそろ洗濯しなければならないが、とりあえずあとでいい。少し臭い布団にくるまって、ぐっすり眠るか。

 いかん。いかんいかん。こんなことを考えると、実行したくなってしまうではないか。すぐに実行してしまいそうだ。忘れろ。布団のことは忘れろ。見ちゃいけない。無いものだと思え。手を動かすんだ。キーを叩くんだ。そら、もう三分の二だ。完璧だ。予定どおりだ。これでいいんだ。

 あと十八時間と一分。間に合うか。だいぶ遅れている。間に合う。間に合わせる。ピッチを上げろ。なにも考えるな。頭の中を、文章でいっぱいにしろ。そうだ。それでいいんだ。快調じゃないか。やるじゃないか、おれも。いいぞ。あと少しだ。〆切がなんだ。そんなもの、怖くない。

 タバコが切れた。ついに切れた。漁っていたシケモクまで切れた。どうする。買いにいくか。時間はあるのか。五分だ。そのぐらいはある。だが、外は雨が降り始めている。雷まで鳴っている。面倒だ。コーヒーを飲め。少しは代わりになる。

 ニコチンが切れてきた。指がこわばる。禁断症状だ。なぜだ。なぜこんなになるまでタバコを喫っていたんだ、いままでのおれは。おかげで余計なストレスがたまる。あと少しだってのに。あと少しで、原稿が仕上がるってのに。

 コーヒーだ。すこしでもイライラを押さえるんだ。もう一杯。ない。なぜだ。コーヒー豆の缶は空だ。買い置きもない。どうして買っておかなかった。雷の中を買いに行けというのか。

 いい。もういい。なにもなくても、おれは書き続ける。なにが足りない。なにも足りなくない。タバコがなんだ。コーヒーがなんだ。そんなものはなかった。最初からなかった。書くために必要なものではなかった。必要なのは、FEPとエディタとキーボードと、それを叩く指と、ディスプレイを見る眼と、おれの脳味噌だけだ。わはははは。なぜ笑う。おかしいからだ。脳味噌だけになってキーを叩き続けるおれがおかしいからだ。なんだ。もうなにもいらん。タバコもコーヒーも布団もいらん。痛み続ける胃もいらん。内臓全部いらん。指も眼もいらん。あるのは脳味噌と〆切だけだ。もうすぐ来る〆切と、もうすぐ出来上がる原稿だけだ。CDがいつのまにか止まっている。BGMは雷だ。わはははは。もっと鳴れもっと響け。雷の中でいまおれの天才の狂気の原稿のタバコの〆切の完成の布団のわはははははははは。

 はは。は。なんだ。なにが起きた。

 ディスプレイが暗くなった。部屋の電灯も暗くなった。低く響き続けていたハードディスクの音も消えた。激しい雨と、雷の音だけがきわだって聴こえてくる。

 停電か。停電になると、どうなる。書いていた原稿が、消える。セーブしていない原稿が、消えてしまった。いつセーブした。していない。タイプすることばかり集中して、メニューキーになど触れていなかった。原稿を書きはじめた、最初から。

 薄暗い部屋で、唯一動いている腕時計を、おれはゆっくりと見た。デジタルの数字は、いまがちょうど、〆切の時刻であることを教えていた。

(終)


というのを書き上げる間、一度もセーブしませんでした。真似しないように。
それ以外の状況も、シャレになっていないかもしれない……。

1995/08/17,相生浩史


ps. 以上をRAMディスクにセーブし、さてあらためてフロッピーにセーブしようとしたところで、システムがハングしてしまいました。不揮発のRAMディスクだからよかったようなものの……。ここんとこは実話です。

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