Fly me to the moon

 ビルの谷間。ペイブメントに響く足音。ただひとりのぼくを見つめる、たったひとつの、蒼く光る月。

 思い出に生きるには若すぎるけれど、未来しか見つめるものがなかった頃とも違う。

 この星にたったひとり、宇宙への想いがこんなに強烈なのは、たったぼくひとり、そう信じていられたころの思い出。もうかすれてしまいそうな、でもけっして忘れることはない思い出を、あの月は知っている。

 

「そらに、いきたいの?」

 淡い闇の中で、そのひとは少女のようにつぶやいていた。

 ぼくは黙ったままベッドから身を起こし、窓際のテーブルに置いた煙草を手にとった。ふわりと広がる煙を、満月の光が照らしている。

「もちろんだよ。なんのために委員会へ入ったと思っているのさ」

 有人宇宙コロニー建設委員会。当時の、やっと人間を月まで往復させた程度の技術水準では夢物語以下、馬鹿者の考えを実現できると信じる人々の集まり。それぞれの熱い想いのなかで、ぼくは自分だけが、飛び抜けた情熱を持っていると信じていた。

「おんなじね。男って、みんな同じ」

「誰と同じだって?」

 煙が喉に痛い。パイロットになるなら、喫煙と飲酒は御法度だ。だけどマリィとつきあうために、ぼくには背伸びが必要だった。自分では青年になったつもりの、ぼくはまだ少年だったから。

「そうね――思い出を、話してもいい?」

「思い出なんかに興味はないよ。ぼくが信じるのは未来と……マリィだけだ」

「未来と、思い出だけにしか生きられないあたしと、どうやって同時に信じるのかしら」

 可笑しくもなさそうに、マリィは笑う。そしてふと真顔に戻り、言った。

「そうね、あたしの思い出も、未来の思い出。未来を信じた人の思い出。未来から、還らなかった人の思い出ね」

 問わず語りに、マリィは言葉を紡いでゆく。そんな身勝手さを、その愁いた瞳の神秘を、そのころのぼくは確かに愛していた。宇宙への情熱と、おなじぐらい熱く。

「もう十五年も前、あたしがあなたとおない歳だったころかな。やっぱり同じように、このベッドの上で、あたしは尋ねてみた。『そらにいきたいの?』。その人の答えは、あなたと同じだった。はじめて月へ行くミッションの、前の夜だったっけ」

「十五年前?」

 人類がはじめて月に足跡を記し、還ってきたのは十一年前、遠い国からの出発だったはずだ。

「そう、十五年前よ。人間を月に送る技術なんか、とてもなかったころ。それでもあの人と、委員会は、信じていた。運がよければ、月にたどりつけると。帰ってくるあてなどないままに」

「そんな」

 そんなプロジェクトがあったなんて、委員会がそんな無謀な賭けをしていたなんて、聞いたことがない。

「地上では革命が始まろうとしていた。ひとをそらに住まわせるための、意識革命。それが可能であると信じさせるために、そして失敗はないのだと思わせるために、極秘に実行して、成功してから発表する。そんなことを平気で考える人だったし、委員会だったから」

「――そして、発表はなかったんだね。委員会の記録からも、そのプロジェクトは抹消されてしまった」

 ぼくは煙草を、灰皿に捻り潰した。

「マリィはそれで、悔しくないの? 恨んでないの? その人を、委員会を、いま委員会にいるぼくを」

「どうして?」

 女は、小鳥のように首をかしげる。

「あの人の情熱を、あたしは知っていたのよ。誰よりも熱い想いを。いえ、そらに行きたがる連中なら、誰でも持っている想いを」

 ぼくはなぜ、自分がマリィに魅かれていたのかを、そのときはじめて理解した。

 

 そして三年が過ぎ、ただひとりのぼくは、まだ地上にいる。だけど。

 月の光は、ひとを狂わせる。太古の昔から、未来にいたるまで。その想いはいつまでも続き、次の世代に受け継がれる。いくつもの思い出を繰り返し、いくつもの未来を見つめ、いくつもの出逢いといくつもの傷跡を通して、ひとは互いに誓い合う。

 細い月の光が、夜明けの中に薄れてゆく。この街の片隅でそいつを見上げながら、ぼくはいつしか、ひとつの言葉だけを繰り返しつぶやいていた。

「待ってろよ。いつか、そこに行ってやる」

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