恋とはなんでしょう

「あなたに、恋しちゃったみたい」

「へえ。それはそれは」

 突然つぶやいた彼女の科白を軽く流して、おれはコーヒーをすすった。

「本気よ。たったいま、あなたに恋をしたわ、わたし」

 彼女の方は、あくまで真剣な顔をしている。

「どうしよう。こんな気持ち、はじめて。これが恋っていうものなのね」

「ありきたりな科白だな」

「言葉なんかじゃ、どう伝えていいのかわからないわ」

 なにやら、思い詰めたような眼をしている。

「しかし、いままで好きでもないのにつき合ってきたみたいな言い方だね」

「ううん、そういうんじゃないの。なんていうのかな、いままでボーイフレンドだったひとが、たった今から恋人になったみたいな」

「そうか。つまり、こういうことなのかな」

 おれもまた、真剣な眼をしてみせて、言う。

「『ぼくは君のことを恋人だと思っていたのに、君は本気じゃなかったんだね。まるでピエロじゃないか』」

「そうじゃないの。そうじゃないのよ。さっきまでの恋と、ぜんぜんちがう」

 彼女は強く首を横に振る。いささかみっともないと思えるぐらいだ。

「おい、ちょっとやめろよ。人目もあるんだぜ」

 そう言ってやると、彼女はぴたりと動きを止めた。

「あなたのこと、好きよ。だからあなたの望みなら、なんでも聞いてあげたい」

「そりゃ、ありがたいけどね」

 おれは背中にいささかの疲れを感じて、ソファの背もたれに身を預けた。

「ちっとも洒落になってないよ」

「洒落じゃないわ、恋だもの」

「わからんなあ」

 ひとつ、大きなため息をついてみせる。

「君の言っている『恋』ってのは、じゃあどういう意味なんだ」

「あなたの言っている『恋』っていうのは、どういう意味なの」

 逆に、彼女が問い返してくる。

 恋、か。なんだったっけな。

「たとえば、こうして昼下がりの喫茶店。ブラックコーヒーとレモンスカッシュ。あるいは深夜のカウンターバー。ブランデーの水割りとラムベースのカクテル。あるいはリゾートのホテル。熱いシャワーとルームサービスのシャンパン。そして欠かせないのが、二人をつなぐ洒落た会話、かな」

「そんなの、恋じゃないわ」

「おれも君も、それが恋だと納得してきたはずだよ」

「恋でもなんでもないの、ただのゲーム」

「ゲームじゃなかったら、なにが必要なんだい」

「恋は、恋よ」

 かたくななまでに、彼女はおれを見つめつづける。

「いままでだって、あなたに恋していたわ。あなたの言うような意味でね。でも、さっき気がついたの。わたしはあなたに恋をしているんだ、って」

 おれは黙ったまま、次の言葉をうながす。洒落ていない会話なんて、早めに切り上げさせるに限る。

「とつぜん気がついたの。一目惚れってあるでしょ、あれとおんなじ。たまたま、相手がゲームをしていた相手だっていうだけ。いまこの瞬間も、あなたに恋しているわ。一瞬前より、激しく、もっと激しく。これが恋なんだって、新しく知り続けているの」

「どんな根拠でそんなことを言えるんだろうね、いったい」

「そうね、前世でも来世でもわたしはこの人と結ばれるんだな、っていう確信とか」

「オカルト趣味とは知らなかったな」

「恋をすると、世界が変わるのよ」

 彼女の口調には、ますます熱がこもってゆく。

「でも世界なんてささいなことだわ、あなたに比べたら。あなたのためなら、なんでもできる。なにも恐くない」

「馬鹿々々しい。酔っぱらいがよく言う科白だよ」

「お酒より素敵ななにかに、酔い続けているみたいな気分がする」

「やめてくれ。酒と間違えて酢を飲んだみたいな気分だ」

 しばらく、沈黙が支配した。

「ひとつだけ、お願いしたいことがあるんだけど」

「永遠の生命と、あと二つ願いをかなえろってのは拒否するぞ」

「お願い。あなたから、わたしに」

「いや、だめだ」

 彼女がなにかを切り出そうとした、それを聞く前におれは拒否した。

「君が言うような恋は、おれにはできない。それぐらいはわかってくれ」

「わかっているわ。誰かに言われてするようなものを、恋とは呼ばないでしょう」

「じゃあ、なにをしてほしいんだ」

「あなたから、わたしになにか望みを言って」

 さすがに虚を突かれて、おれの動きが止まった。

「さっき、言ったでしょう。あなたの望みなら、なんでも聞いてあげたい。だから、なにかわたしにさせたいことを教えて」

 彼女は、あくまでも真剣な瞳でおれを見つめている。

「あなたになにかを強制したいなんて思わない、そんなのが恋じゃない。だけどなにかひとつでも、あなたのためにしているんだと思えれば、それを恋の証にすることができるの。お願い、なんでもいいわ」

「ふーん」

 少し気を取り直して、おれは煙草に火をつけた。

「たとえば、一生おれの奴隷になれとか、この場で素っ裸になってみろとか、そんなことでもいいのかい」

「そんなことでいいの。簡単すぎるわ」

 真剣な瞳はわずかも動かずに、狂気に似た光を浮かべはじめている。

「にっこり笑いながら手首を切れ、ぐらいのことなら、すぐにでもやってあげるのに」

 煙草を持つ指先が震える。知らぬうちに、喉が勝手に唾液を飲み込んでいた。

「なんで、そこまで言えるんだ。なにを考えているっていうんだ」

「何度も伝えたじゃないの。

  あなたに、恋しているのよ」

 噛み合わない歯を必死で黙らせながら、フィルターが焦げるまで喫った煙草を灰皿に押し付け、ようやくおれは口を開いた。

「じゃあ、ひとつだけだ」

「なあに。なんでも言って」

 強い期待のために、彼女の瞳はうるんでいるようにさえ見える。

「ゲームを続けろ」

 意味が理解できなかったのか、身を乗り出したまま彼女は凝固している。

「さっきまでやっていた、恋愛という名のゲームだ。それを、おまえとずっと続けていたい。おれの望みは、それだけだ」

 長い沈黙が落ちた。彼女はうつむき、その肩が震えはじめる。

 覚悟を決めて、おれは待っていた。仕方がないんだ、と自分に言い聞かせながら。

 やがて顔を上げた彼女は、これ以上はないような微笑みを見せていた。

「どうする。次、どっか行こうか」

 おれは、あっけにとられていた。

「行こうか、って、おまえ」

「映画がいいかなあ、まだ飲みに行くには早いし。それともショッピングにしようかな」

 そう言いながら彼女は立ち上がり、伝票をとっておれに押し付けた。

「ワリカン、って言いたいところだけど、ここだけは払ってね」

 呆然としているおれを残して、彼女は素早くレジの外に出てゆく。

 その背中から、見えない鎖が伸びておれに繋がっていた。

「ほら、早くぅ」

(終わり)
'93/09/06 相生浩史

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