突発的小説講座・パクリ編

 前代未聞のタイトルである。ちなみに今回は「小説講座」でもなんでもなく、物語創作一般に関して取り扱うことになる。もちろん小説にも通用するが。
 まず、「盗作とパクリは違う」ということを確認しておく。
 盗作はいけない。これは説明するまでもないと思う。
 しかしパクリは、これを否定すると(特にエンターテインメントのジャンルでは)創作活動そのものが成り立たなくなるほど重要なものである。
 では具体的に、両者はどう違うのだろうか。盗作は、既存の作品のアイデア・プロットなどをそのまま使うことを指す。それに対してパクリとは、既存作品からなんらかの借用をしながら、自分のオリジナルな世界を描くことを目的としている。
 いうまでもなく、両者は紙一重である。違いは自分自身によるオリジナリティを重視するか否かだ。

○パロとパクリ

 盗作とパクリの間に、パロと呼ばれるスタイルがある。もともとはパロディーの略だが、独自の発展を遂げて別のものになりつつあるようだ。
 パロディーは既存の(特に高名な)作品に対して、そのスタイルを借りて権威をからかい、「引きずり下ろすこと」を目的としている。いっぽうパロは、特に作品批判を目的とするものではなく、むしろ作品世界に自分の解釈という新しい要素を付け加えようとするのが目的であるようだ。それは元ネタとなった作品を引きずり下ろすことなく、むしろ世界観を膨らませる役割すら果たす。
 端的な例として、パロが成立した当初から存在するエロパロと呼ばれるものを挙げると、アニメのキャラクターなどを登場させ、テレビでは絶対あり得ない性的行為をさせている。これは作品を否定するからではなく、「作品を愛するがゆえに」キャラクターを生きた存在として捉え、生きたキャラクターのあり得べき、しかし画面に現れない生活を描いているのだ。
 既存の作品世界に対して、自分の解釈による世界観を付け加え、そのとおりにキャラクターを動かすパロは、付け加える世界観の割合が増えていけばいくほど、パロ作家のオリジナル作品に近くなってゆく。しかしそれが基本的なキャラクターや世界観を借りている限り、オリジナルと呼ばれることはない。

 ここによくできたパロ作品があるとする。既存のキャラクターやそれぞれの関係を引用しながら、アイデアやストーリーは完全にパロ作家のオリジナルである。
 この作品がテキストファイルだったとして、その固有名詞を一括置換してしまったらどうなるだろうか。残るのは元ネタ作品の人間関係だけであり、人間関係のパターンがある程度限られている以上、置換した結果をオリジナル作品として発表してしまっても、誰にも気付かれないかもしれない。
 この操作を、意図的に行うのがパクリである。
 「それは人間関係というものに関する盗作ではないのか」という疑問が当然出てくると思うが、前記したようにそのパターンは限られているのだ。たとえば不幸な少女が王子様に見初められる、という物語を描いたら、それはすべて「シンデレラ」の盗作なのだろうか。だとすると、少女マンガの多くは成立しないことになってしまう。「不幸」「王子様」という概念をもっと広く定義すればなおさらだ。

○パクリのための心構え

表1・元ネタとの関係
元ネタに即する元ネタと離れる
元ネタ明示パロディーパロ
元ネタ隠匿盗作パクリ

 ここまでを整理すると、表1のようになる。
 ただしこれはかなり単純化した分類である。また作家の腕が未熟であればあるほど、作品は盗作に向かって近付いてゆく。
 それを防ぐキーとなるのは、おそらく「元ネタの世界観をいかに隠匿するか」だと思う。上でパロからパクリへの移行例を示したが、ここで人間関係だけではなく世界観まで借りていると、単純な置換だけでは元ネタを隠匿することができない。結果として、出来上がるのはただの盗作である。そしてオリジナルな世界観の確立は、創作に当ってもっとも重要視するべきものである。
 結論を言おう。世界観さえオリジナルなものであれば、それは盗作ではなく、オリジナル作品として評価し得るものになる。それ以外の部分で、どんなパクリをやっていても、だ。
 ただしそれが、いい評価になるかはまた別である。
 上手にパクリをやるためには、読者(または観客など)に対して、できるかぎり元ネタを気付かせないことが大切である。たとえ一人にでも気付かれてしまったら、そのパクリは失敗だと思っていい。ここでは世界観を中心に話を進めたが、それさえ違っていればいいというものではない。キャラクターなりを自分の世界観に取り込んで、できるだけ膨らませる作業が必要になる。

○パターンとはなにか

 パクリを肯定できる根拠として、パクリと意識せずにパクってしまうことがあり、それがオリジナル作品として多く流通している事実を挙げておく。
 「美少女戦士セーラームーン」という作品を例にとってみよう。(多くのひとにとって馴染み深いだろうというのが理由で、他意はない)。
 この作品に「秘密戦隊ゴレンジャー」のパクリが含まれていることを、たぶん作者も意識していないだろうと思う。もちろん、変身する五人組の超人、という部分のことだ。これは「ゴレンジャー」のあと、数え切れないほどの作品群がこのパターンをパクり続けてきて、すでに「戦隊もの」というジャンルとして確立されているためである。そしてまた「ゴレンジャー」も、さかのぼれば「西遊記」「水滸伝」などにまで到るグループヒーローのパターンをパクることによって成立しているのだ。
 極端な話、「正体不明の敵との対決」「敵の親玉、数人の幹部、やられ役」「トドメを刺すのは主人公」などというパターンを一切排除したら、たいていのエンターテイメント作品は成立しなくなる。しかしこれらは物語の要素であり、どこかにオリジナルがあったはずだ。それを数知れぬ人々がパクり続けた事実をもって、暗黙の了解として盗作とはみなされないことになっているだけなのだ。
 「セーラームーン」で言えば、第一部の重要な世界観である「前世から転生した恋人と巡り会う」というのもパクリには違いない。しかしこれを、前記の戦隊ものパターンと組み合せたところにこの作品の新しい世界観があり、新しい世界観がある以上この作品はオリジナリティがあると言って差し支えない。

 ではパターンの順列組み合せによって、物語や世界観が成立してしまうのだろうか。これは、そのとおりだと言うしかない。
 パターンを恐れてはいけない。それがパターンとして確立され、数多くの作品に採用されてきたという事実は、一定の効果をもたらすことの証明である。
 まったく新しいパターンを創ることができれば、それは理想的である。だが、一つのパターンを思い付いただけで物語を創ることはできない。それに加えて、なにかしら既存のパターンを組み合せていかないと、おそらくストーリー自体が成立しないだろう。仮にすべて新しいパターンだけで構成された物語があったら、それは読者らにとってなんだかわからないものになってしまうだけだ。さもなければ、パターンのもたらす魅力をすべて捨て去った味気ないものになる。

○パターンとパクリ

 確立されたパターンを利用することはいいとしよう。では、確立されていないパターンを利用することはできるのか? たとえば「セーラームーン」の世界観に、なんでもいいがスポ根のパターンを組み合せるとする。組み合せた時点で、これはオリジナルの世界観だと主張することはできる。だが、現時点('94時点)では「セーラームーン」の世界観自体はまだパターンとして確立しているとは言えない。ならば、そこになにを付け加えてもそれは「セーラームーン」のパロ作品であって、オリジナルとは言えないのではないか。そうした疑問が当然浮かび上がってくるだろう。パターンが確立するためには、たくさんの作品がそのスタイルを真似している必要がある。
 ここに、意図的なパクリの価値が出てくる。「セーラームーン」の魅力が「戦隊もの」と「前世もの」の組み合せである(もちろん実際はそれだけではない)ということまで分析できていれば、その組み合せ方を少しずらして、さらに自分なりに別のパターンを組み合せることによって、完全にオリジナルの世界観を生み出すことができるのだ。こうしたことの積み重ねによって、一方で「セーラームーン」の世界観がパターンとして成立するようになってゆく。

○まとめ

 「自分なりの世界観を創ってゆく」ことが大事だということを先に述べたが、こうしてみると、世界観そのものもパターンの組み合わせとして分析することが可能だということがわかる。すなわち、物語を作るということはいかにうまくパクリをしていくかということに他ならない。
 既存の作品の魅力をエッセンスとして取り出し、それを自分の形にしていく。
 これがパクリの重要な点であり、同時に作品を創る基礎となるだろう。
 理論家ではなく実作者としての経験から述べる意見なので、前後して判りづらい部分もあったかと思うが、おおむね以上である。

本文中の注釈

※1「なぜ盗作はいけないのか」
じつはこの問題は、追求しはじめるときりがなさそうなので、ここでは逃げているだけである。

※2「世界観」
この言葉の定義はけっこう厄介なので、これも逃げておくことにする。
どうしても気になるのなら、「設定」という言葉に置き換えて読んでほしい。

※3「パロの成立」
当初、パロがパロディーの略として言われはじめたころは、「お高く止まったキャラクターを性的行為などに引きずり下ろす」という意識がわずかながら見られたように思うが、現在はそこまでの問題意識はないようだ。むしろ、前記したように世界観を膨らませることのないパロディーは、パロ側から否定的に扱われているように思う。

※4「作品を愛するがゆえに」
多くは口実にすぎない、というのも一面の事実ではある。

※5「パロディーと盗作」
省略して書いたので、ここではパロディーの方が盗作より下の存在であるように読めるかもしれないが、どちらかといえば逆であると思う。出来の悪いパロディーは盗作に限りなく近付く。これは創作に対する態度の問題だろう。

※6「どんなパクリをやっていても」
言うまでもないが程度問題である。たとえば文章をそのまま無断流用したら、これは世界観云々ではなく著作権法で裁かれるべき問題になってくる。

※7「新しい世界観」
「セーラームーン」以前に、他にそういう世界観を持った作品があったかどうかは、ここでは問わない。パターンが有限である以上、その組み合せも有限でしかない。パクリ云々とは別に偶然の一致という困った事実があるのだ。

95/05/04
相生浩史

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