あなたと夜と音楽と

 水野正義。十六歳。

 信条――喧嘩上等。

 

 九十二年製カワサキ・エリミネーター400は、今日もセル一発で反応し、野太いエクゾーストノイズを叫んだ。数呼吸のアイドリングを終え、左足のシフトペダルを踏み込んでからゆるやかにスロットルを開くと、水冷四ストローク並列四気筒三百九十八ccエンジンは、素直にノイズを高めていく。三千回転まで上がったのを確認してから、クラッチを繋ぐ。乾燥重量百九十五kgの車体が、ゆっくりと、確実に、動きはじめた。

 三速から回転を上げていき、いくつかのウィンカー操作を経て旧街道に入る。このまま都心に向かうか、この先の信号を曲って首都高を使うか……。まだ二十一時過ぎだし、のんびり行ってもかまわねえか。信号がうざったいけど、まあ我慢してやろう。今日の俺は、機嫌がいいんだ。

 回転を落して五速に繋ぎ、上体を起こして巡航姿勢に入る。平日だというのに車は少ないし、信号もうまい具合に青が連続している。この県庁前あたりまでで、赤信号に一回も引っかからなかったのは、もしかしたら初めてかももしれない。

 上機嫌ついでに口笛を吹きたくなったのを、ぐっと我慢した。我慢してからその理由を思い出し、苦笑する。

 死んだばあちゃんがよく言ってたんだ。

「夜中に口笛を吹くと、蛇が出るよ」と。

 蛇でもなんでも、出てくりゃいい。今の俺に、恐いもんなんかない。だけど、ばあちゃんの言いつけにそむくのも、気分のいいもんじゃない。

 ノーマルマフラーの、ごく静かで力強いエンジン音だけを鳴らしながら、俺は新宿に向かって走り続けていった。

 

 明治通りから靖国通りに入り、アドホックの手前でエンジンを切って、惰性で歩道に乗り上げる。ごちゃごちゃと固まっている自転車の間に重い車体を強引に割り込ませてから、ようやく俺は一息ついた。二十一時四十九分。池袋駅前で例によって軽い渋滞に巻き込まれたにしては、まあまあのタイムだな。

 路上では、安酒で酔っ払った中年サラリーマンどもと、いつでも酔っているような若い連中が、せめぎあうように交錯している。千鳥足で他人の通行を妨害しているのも、あたりまえの権利のつもりらしい。

 俺はそいつらに、肩からぶつかっていきつつ、横断歩道を渡って歌舞伎町に向かった。ときおり、ぶつかって擦れちがいざまに睨みつけてくる酔っ払いはいるが、ちょっと睨み返してやると、即座に視線をそらせてしまう。そんな態度するんだったら、最初から酔っ払って歩いてんじゃねえよ。

 この街は、あいかわらずだ。十七時間ぶりに戻ってきたってのに、ゆうべとなにも変わっちゃいない。すべて電飾かネオンの看板が原色の重なりあいになり、どんな抽象画家にも描けない模様で俺を迎え入れてくれる。

 うら寂れた木造モルタルの下宿や、ましてコンクリートにペンキをぶちまけた教室に比べたら、なんて安らぐ場所なんだろう。数え切れない人間たちが、数え切れない意図をもって、それぞれ身勝手に歩き回り、反吐をつき、寝転がり、叫び、笑い、暴れている。その姿は、笑いたくなるほど愉快で、俺の気分にぴったりだった。

 だから俺は、この街が好きなんだ。

 コマ劇場裏から区役所方面に向かい、ちょっと路地に入って薄暗い階段を上がる。「CoCoNuTS CLuB」と、わざと古くさい書体で作られたネオンの看板は、ずっと「N」の字が切れたままだ。ここに来るたびに、つまり毎日、マスターに注意してやろうと思いながら、カウンターに座った瞬間に忘れてしまう。そして次の夜、また同じことを考える。自分の頭の構造がどうなっているのか、さっぱり判りゃしない。

 重い木の扉を開け、無口なマスターがうなずきだけで迎えてくれたのに対して、こっちも目線だけで応えてスツールに腰掛ける。薄い口髭を生やしたマスターの顔を見て、なにか言うことがあったんじゃないかと思いかけたが、考えてみても、言うべきことはひとつしか思いつかない。

「ボトル。それと、いつもの」

 マスターはあいかわらず黙ったまま、なぜか俺に斜めの視線を向けた。

 狭い店だ。細長い店内の三分の一を六人掛けのカウンターが占め、申し訳のようなテーブル席が二つ、奥にアップライトピアノが置いてある。

 あれっ、と思った。どの椅子にも、ピアノの前にも、俺の他に客はいない。

「マリィはまだ来てないのか」

 四分の一ほど残っているフォアローゼズと、よく冷えたコークの瓶を並べながら、マスターは首を横に振る。

「そろそろだろ。それより、今日はそれ以上飲ませないからな」

「なんだと?」

 極上だった気分が、瞬時に醒めていく。

「どういうつもりだよ、そりゃ」

 我ながらドスの効いた声で尋ねたが、彼は平然とした表情を崩さず、鼻だけでフンと笑った。鼻息で細っこい口髭がそよぐ。

「ゆうべ自分がなにやったか、覚えてないのか」

「クソ生意気なリーサラを三人、ブチのめしただけだろ」

「へえ。そのぐらいの記憶力はまだあったんだな」

「おい」

 いいかげん腹を立てて、俺は立ち上がった。百八十一センチの俺からすると、マスターの顔は見下ろすほど低いところにある。

「客に向かって、なんて言い草だよ」

「おまえが客ならあいつらだって客だ。コークハイだけで一晩粘る客より、いきなりXOのボトルを入れる客を優先するのが、ウチの商売のやり方だ」

「三日に一度ボトルを入れててもか。お得意様は大事にした方がいいぜ」

「だから、飲まさんとは言ってない。たいがいにしとけ、と言ってるんだ。若いうちから酒を覚えたって、いいこたないぞ」

「――わかったよ。もう来ねえ」

 脱ぎかけていた革のジャケットを羽織り直しながら、俺は店のドアに向かった。

「おい。飲まないのは勝手だけどな、コークの栓を抜いちまったんだ。その分は払っていけ」

「ツケとけよ」

 捨て科白を吐いてから、しまったと思った。また来る、と言っているようなものだ。

 マスターがニヤニヤ笑っているのを背後に感じながら、俺はいま入ってきたばかりのドアを出る。ふと、ここの看板が目に止まった。そうか、「N」の字のことを言おうと思っていたんだ。

 もちろん、わざわざ引き返してそれを言う理由なんか、ひとつもない。

 

 次の店を、探さないといけない。俺の面が割れていない、ややこしい連中に絡まれないって条件が最優先だ。それから雰囲気と、いちおう値段だな。

 改めて考えてみると、そんな店はほとんどない。ちぇ。こうなると、なまじっか顔が売れちまうのも良し悪しだ。

 とりあえず、あまり通ったことのない界隈を目指して、区役所の裏あたりをふらふら歩いてみる。たしかに面は割れていないんだが、どうもこのへんの雰囲気は好きになれない。前向きに酒を飲もうって気概に欠けている。

 そりゃ、どんな飲み方したって勝手だけどな。それができんのが、この街のいいところなんだから、道端で寝っころがってカップ酒飲んでいようが、それだけなら文句は云わない。そこらじゅうに反吐ついたりしなければ。

 ただ、なんていうのかな。人生に疲れたような顔をして、愚痴だらけの酒を飲む連中のことだ。世間を逆恨みしながら、それが正当な権利のつもりでいるような。飲み方ってより、生き方が気に喰わない。

 そう、昨晩ブチのめしたサラリーマンどもがそれだった。せっかく気分のいい店に来て、高い酒を飲んでまで、上司や女房の悪口を愚痴垂れるこたないだろう。言いたいなら相手に直接言え。せめて、端で聞いてる者が不愉快になるような真似だけはやめろってんだ。

 昨晩のムカつきが蘇り、思い出し怒りのような妙な状態で歩いていると、いくつもの視線が突き刺さってくる。いちいち確認はしないが、以前に叩きのめしたチンピラとか、それを見ていた腰抜けとか、どうせそのへんだろう。

 まあ、いまのところは、いきなり拳銃で撃たれるほどのことはしていないはずだ。それぐらいなら、この街で安全に過ごしていられるってもんだろう。

 声をかけてくるといえば……ほら。いい女に決ってるんだ。

「マサちゃん!」

 いきなり駆け寄ってきた女には、なんとなく見覚えがある。見た目なら二十二、三だが、実際のところ最低五歳は上だったはずだ。

 あれ。どこでそれを聞いたんだったかな。いやベッドの上だったのは間違いないが、新大久保のホテルだったか彼女の部屋だったかが思い出せない。どっちだっていいようなもんだが、部屋でそれを聞かされるぐらいの仲だったら、自称の年齢でもいくらかは信用できる。

「マサちゃんいいところに。店の中で。コレが。暴れてて」

 指先で頬を引っ掻くような仕草をしながら、恐怖に震える女は俺にしがみついてきた。

 なんだ。くそ、つまらねえ。

「んで。いくら出す?」

「そんな。いまさら」

「仕事だろ。現金とっ払いじゃなきゃ受けねえよ、俺は」

「……三万」

「五枚だ」

「三万五せ……」

「嫌ならやめな」

「わかった。わかったから、早く」

 こうやって頼まれたんじゃ、しょうがねえな。一肌脱いでやるとするか。

 

 この店には、何度か来た覚えがある。たしか二年ぐらい前に、さっきとは別の女を喰い逃げしてからバックレてたんだ。店に入って見回したが、さいわい、あのときの女はいない。

 代わりと云っちゃなんだが、これ以上はないってぐらい下品な服装をした男がいて、割れた酒瓶を逆手に持ったまま周囲を睨みつけている。店内はすでに滅茶々々だ。チーママと俺の知らないホステスが隅の方で、抱き合ったまま顔面を蒼白にしている。

 なんとも判りやすい状況だ。まるで、安手のアクション小説の一場面みたいなもんだ。

「あーあ。派手にやっちゃったねえ」

 思わずつぶやくと、背中を向けていた男はぎくりとしたようにこちらを振りむいた。やたら小柄で、身長が百五十センチぐらいしかないように見える。が、肩幅からして筋肉はかなりありそうだ。

 とりあえず、顔に見覚えはない。ブチのめしたことがある相手なら、たいてい覚えているつもりなんだが。

 だがそいつは、俺の顔を見るなり表情を変え、割れた瓶をしっかりと持ち直した。

「お前たしか、水野とかってガキだな。最近やたらでかいツラしてるそうじゃねえか」

 わざとしゃがれさせたような声で、そいつがつぶやく。

「どうだったかなあ。忘れちゃったよ」

「――ふざけてんじゃねえぞ」

「ほんとだよ。ずっとマサって名前で通ってるんだ。名字でなんか呼ばれたことがないもんで」

「たいした意気がりようだな。ガキのくせに」

 蛇みたいな眼をしてやがる。

「おかしいなあ」

「……なんだって?」

「いや、あんたに睨まれる心当たりがない。ちゃんと口笛は我慢したのになあ」

 この冗談が通じたはずはないのだが、男はふいに得物を振り上げ、正面から襲いかかってきた。

 遅い。

 すかさず右に避け、相手の左側に回り込みながら、手首の付根に手刀を叩き込む。急所を打たれて、奴は得物を取り落とした。割れた酒瓶が床に落ち、派手な音を立てて砕ける。

 一瞬、呆けたように床を見つめたそいつは、しかし再び俺に向き直り、飛びかかってきた。

 普通の酔っ払いなら得物を落したところであきらめるもんだが、さすがにこいつはしぶとい。

 正面から飛びかかってくるところへ、俺はタイミングを測りながら、思いきり右脚を振り上げた。

 狙いは、わずかに反れた。奴の顎に喰い込んで跳ね上げるはずの爪先が、喉仏に命中する。

「ぐぼ、おっ」

 嫌な声を吐きながら、奴はのけぞった。

 高く揚げた俺の右脚は、まだ宙高く、奴の頭上にある。

 俺はその脚を、そのまま勢いよく振り下ろした。

 かかと落としを顔面に極められた瞬間、人間はなにを考えるもんなんだろう。

 俺だったら、自分の情けなさに涙が出るだろう。こんな目にあうぐらいなら二度と喧嘩なんかしない、と誓うかもしれない。

 少なくとも、喉を潰され眉間を割られて床に寝そべった状態では、痛さに身動きができないはずだ。

 だが。

 この男は、俺のようにナイーブな神経は持っていないらしい。

 白眼を剥いて床をのたうち回りながら、それでもまだ、反撃のチャンスを窺っていたのだ。

 すっかり油断した俺が近付き、身元をあらためようと屈みこんだ、そのとたん。

 膝蹴りが襲ってきた。

 寝転がった姿勢のままそいつは、いきなり膝を曲げて俺の脇腹を狙いやがったのだ。

 とっさのことで、受け止められない。

 重い衝撃が内臓に届き、嫌な、情けないような気分が全身に広がる。

 角度が浅かったからたいしたダメージではないが、俺は頭に血が昇った。

 生意気にも反撃してきやがったことへの怒りと、この状態でまだ的確な攻撃ができる奴への。

 恐怖だ。

 上半身でのたうちながら、下半身は独立した生物のように動き続ける。

 こいつを蛇と思った最初の印象は、正しかったのかもしれない。

 奴の股間を蹴りつけたところまでは、覚えている。

 頭では解っていながら、理屈抜きの感情が俺を支配している。

「マサちゃん。ちょっと、マサちゃん」

 さっきの女に羽交い締めにされて、ようやく俺は我に返った。

 いつのまにか、奴はズダボロになっている。

 俺は、奴の頭といわず体といわず、繰り返し蹴り続けていたのだ。

「――ああ」

「殺しちゃまずいわよう」

「わかってる」

「そんならいいけどお。なんか、眼が本気だったから」

 あたりまえだ。

 俺は、本気だったんだ。

 本気で、こいつを殺そうとしていたんだ。いつのまにか。

 だが、それを言ってしまうわけにもいかない。

 俺は黙ったまま報酬を受け取り、遊んでいけばという女の誘いを振り切って、また夜の街へと戻っていった。

 

 あちこちの店の看板が、街灯よりも、もちろん月よりも明るく照らしている路上を、俺はふらふらと歩いていった。

 歩きながら、考える。

 いま俺は、あいつと戦った。

 それだけなら、いい。頼まれた仕事であり、趣味でもあって、つまりいつもやっていることだ。

 だけど。いつも俺がやっているのは、喧嘩だ。

 殴って、蹴って、相手が逃げ出すか気絶するか、要するに反撃できなくなれば終わりだ。

 さっきは、そうじゃなかった。股間を蹴った時点で、奴は上半身も下半身も動かせなくなっていたはずだ。少なくとも、それからなお反撃してくるかどうかを観察する余裕はあった。

 憎かったわけでもない。反撃されて腹も立ったが、それだけでムキにならないぐらいは場慣れしているつもりだ。

 なのに、殺そうとしていた。

 相手を、生きた人間を、殺そうと考えていたんだ。

 俺は。

 自分がそんな男だったなんて、信じられない。

 信じられないけれど、事実なんだ。

 このままじゃいつか、本当に、誰かを殺っちまうかもしれない。

 いつまでもそんなことを考えながら、俺はふらふらと歩き続けていた。

 

 どのぐらい、そうやっていたのかは判らない。

 気がつくと、また「CoCoNuTS CLuB」の前に立っていた。

 休みたい。

 猛烈に、休みたかった。いつもの店で、いつものようにして。

 ほんの少しだけ躊躇しながら、俺は店のドアを開ける。

 マスターは、いつものような無言で、俺にうなずいてみせた。

「ボトル。それと、いつもの」

 言いかけてから、思い直す。

 コークハイなんか飲みたくない。

 添えられたコークの瓶を無視し、出されたグラスにバーボンをなみなみと注いで、一気に飲み干す。

 乾いた熱さが舌を灼き、喉から胃にまで心地よい痛みが走る。

 なにもかも忘れさせてくれそうなその感覚に、俺は身を委ねた。

 ふと気がつくと、マスターが目の前でにやにや笑っている。

「やっとツケを払いに来たのか」

 俺は黙ったまま、さっき手に入れた札を何枚か取り出し、マスターの顔面に叩きつけてやった。

 彼は怒りもせず、にやにや笑いのままその金をポケットにしまう。そのあとはなにも言わず、ただ俺が飲み続けるままにしてくれた。

 それを邪魔したのは、別の声だった。

「荒れてるじゃない、マサちゃん。どうしたの」

「マリィか」

 この店の常連、というか、なぜかいつもここで酔い潰れている女だ。齢はわからない。外見の問題ではなく、別の時間に生きているような、そんな雰囲気がある。人間なら三十過ぎってあたりだと思うんだが。

「いつのまに来てやがった」

「あらあら。目上に向かってなんて口を利くんでしょ、この子は」

「目上だぁ?」

 ふいに、笑いがこみ上げてきた。あるいは、ようやく。

「いいか。この店でいちばん偉いのは、金を払った客だ。その次がマスター。いちばん最後が、金も払わずに酒を飲もうってろくでなしだ」

「まあ。あたしはねえ、ちゃんとここでピアノ弾いて稼いでるの」

「稼ぐったって、飲ませてもらってるだけじゃんか」

「自分で稼いだ分は、どう使ったって勝手でしょ。たまたまぜんぶ飲み代になっちゃうだけ」

 マリィはそう言って、おかしそうに笑ってみせた。

 もう何十回となく繰り返してきた、常連同士の会話。

「おかしいな。こっちは、マリィを雇った覚えはないんだが」

 マスターが調子を合わせてくる。いつものように。

「あっ、ひどい。そんなこと言うんなら、もう弾いてあげないからね」

「ウチじゃ頼んでいない。まあ、客がピアノをいじるのは勝手だけどな」

「ほぉら」

「金をちゃんと払った客なら、な」

「だからあ、その分はピアノ弾いて稼いでるからあ」

 いいかげん、ジンロックが回りきっているらしい。俺は、笑いながら言った。

「いいから、なにか弾いてくれよ」

 こうしてリクエストしたってことはつまり、今日の彼女の飲み代は俺がおごってやると、マスターに宣言したことになる。本人にはたぶん、そんな自覚はないんだろうが。

 混乱と酩酊が入り混じった表情で眼をぱちくりさせていた彼女は、せっかくの俺の好意にうなずきもせず、いきなり立ち上がってピアノに向かった。

「なにがいいの」

「なんでもいいよ。好きなのを演ってくれ」

 やがて流れはじめたメロディーの、タイトルを思い出せなかった。なのに聞き覚えがある、そんな曲だ。

 もともと、マリィのレパートリーはそんなに多くない。その前に、まともにやって金をとれるような演奏じゃない。たとえ酔っ払っていなくても。

 だけどこうして聞いていると、不思議と気持ちが落ち着く。なぜか、懐かしいような気分さえしてくる。なにか大切なことを、思い出せるような。

 

 ようやく緊張がほぐれ、アルコールが回りはじめた心地よさの中で、俺は考え続ける。

 あいつは間違いなく、喧嘩のプロだった。俺の顔を知っていて、おそらくどこかの組織に属している。なぜ拳銃を最初から出してこなかったのか、不思議なぐらいだ。

 そのうち、あいつ本人か、あるいは組織の仲間かが、確実に俺を狙いに来るだろう。

 俺はそいつに、殺されるかもしれない。

 それはいい。死ぬのが怖いとは思わない。

 でも今の俺には、死ぬより怖いことがある。

 俺はそいつを、殺してしまうかもしれない。

 自分がそんな人間だってことが、なにより怖い。

 だけど。

 柔らかい、もたつくようなメロディーが、耳にしみこんでくる。

 こうしてマリィのピアノになごんでいるのも、たしかに俺だ。

 ならば、それでいいじゃないか。

 いつでも死ねる覚悟は人間を強くする。それなら、いつでも殺せる覚悟だって、俺を強くしてくれるだろう。

 ピアノの音は、いつのまにか途絶えていた。マリィがやっと酔い潰れたらしい。

 ああ。もうそんな時間なのか。

 帰ろうと立ち上がった俺に、マスターが珍しく声をかける。

「――若いうちから、無茶を覚えるなよ」

「ああ。ありがとう」

 そして店を出たとき。俺はもうひとつ、大切なことを思い出した。あわてて振り返り、言う。

「マスター。表の看板、Nの字が消えているぜ」

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