アニメ

新世紀エヴァンゲリオン

やっぱ、この話はするのね(笑)。
わたしは人間の普遍的な知性というものをどうも過剰に信じ込んでいるところがあって、あるていど知性があると思われる人間が自分と違う考えを持っているとひどく驚いてしまうことがある。
かつて、TVシリーズ終了直後のこの作品に対する罵倒に近い非難に対しては、感情的な反発すら覚えたものである。それほど入れ挙げていたのかというとやはり入れ挙げていたのであるが、それは批判(というより拒絶)した側だって同じだったはずだ。放映前半ではあれだけ感情移入して観ていたくせに、「自分に理解できなくなったとたんに」拒絶するという法はないだろう。それまで、些末事をあげつらってはしゃぶりつくそうとしていた、たとえばキリスト教系オカルティズムへの歪んだ知識欲が、なぜあの前衛演劇もしくは自己啓発セミナー的表現の解釈へと向かわないのだろうか? どちらも同じ水準にあると思うのだが。
表現を優先したためにストーリーが破綻したことへの批判は、また別の話だ。たとえばわたしは、謎解きがなかったことよりも、「唯一の理解者でもあった親友をその手で殺し首を切断した、十四歳の少年の感情と悔悟」について、なんらかの説明があるべきなのにそれがまったく説明されなかったという点が非常に気になったのだが、そういうレベルでの批判はほとんど聞かれなかったと思う。聞こえたのはただ「作画で手抜きしたんだろう」程度の罵倒。アホか。動画撮影とペーパーアニメの区別もつかないのにアニメーションの批評なんかするんじゃない。

というわけで、「Revival of Evangelion」をなんというかやっぱり観てきてしまった。実は「The End of 〜」は一度しか観ていなかったので、あれここはこうだったんだ、ここでこんな伏線を張っていたんだ、などと発見があって、なかなか楽しめた。やはりこの作品、数回は観ておくことをお勧めします。そういやそろそろLD出るんだな。買ってないけど。
発見といえば、もうひとつ。「The End of 〜」公開の当時、「監督が誰それにふられて腹いせにあんなストーリーになったんだ」という俗説を聞いて、そんなバカなと大笑いしたのだが、もしかしたらその説はあたっているのかもしれない。〈少年の自己認識の物語〉という定番の解釈でもいいのだが、〈フラレ男の自己弁護〉だと思って観てもけっこう納得できるんですよ、これが。

1998/03/16 - 08/07

赤ずきんチャチャ

放映されたのはもうだいぶ昔になってしまうが、まあなんにしても凄い作品であった。「チャチャ」を足がかりに売り出した、いまアニメ界で人気の高い人間だけでどれぐらいいるんだろう。佐藤竜雄、桜井弘明、大地丙太郎、ワタナベシンイチ、渡辺はじめ、鈴木真仁、桜井智、並木のり子……。たとえいまは劇場版アニメの監督をしている人間でも、「あのチャチャの」という形容詞がいまだについてくるぐらいだ。
それとわたしは、声優としての香取慎吾をかなり評価している。あれは演出の力も当然あったのだろうが(あんな演出陣は二度と集まらない。三年後には高い評価を受けて監督クラスになっている人間が少なくとも四人はローテーションに加わっていたのだ)、本人が「演技」に開眼していくようすが、作品を通して観てみるとはっきり判る。最初のころはセリフ棒読みで、「誰だよこんな売れてないアイドルを主役級に抜擢したのはさあ」というありがちな感想しかなかったのだが、SMAPがどんどん売れていくにつれて、彼の芝居も上達していった。最終回付近を観てみれば、もう香取以外にリーヤの役は考えられなかっただろう。この役を経て、彼は「未成年」「ドク」といったドラマで難しい役に挑み、こなす力をつけていったのではないだろうか。
作品の、最初のころの話はしないでおいた方がいいのかな。主役二人の演技は、その後の伸びを勘定に入れて評価しても、あまりといえばあんまりなものだった。原作の、微妙な勢いのあるギャグがすごすぎて、フィルムに定着しきれていなかったのもあきらかだ。ただ後半、原作のギャグを素材として消化し、フィルムならではのギャグを追求するようになってからが、「チャチャ」の本領だろう。原作とアニメの、あまりにも幸福な関係がここにある。
余談なんだが、アニメが終わってからSMAPファンになったとおぼしき原作者の心情って、どんなもんだったんだろうなあ。

1998/09/10

NG騎士ラムネ&40

これはもう、なにが好きなのか、どこがいいのか、説明するだけで一晩つぶせる自信がある。とりあえず、最近X-2000に「闘え!キングスカッシャー」が入ったことで、八年ごしの夢がかなったということは特記しておこう。
「なんだっ、この光は!」
「我らを呼ぶのは誰だ!」
ああ、いかん。挿入歌のタイトルを書いただけで、「あの」最終回の場面が、ひとつひとつ蘇ってくる。

〈見たこともない神サマなんて あてにしてたらおしまいさ〉

これが、「生きる」ということなのだ。

(まだ続く……)1998/09/16

スーパードール リカちゃん

ある日の出来事・前編

「Cレヴォの帰りに山楽会館で打つと勝つ」
前回まで2回続いたこのジンクスを証明するために、レヴォ終了後西口へ直行。
山楽に行ってみると、お世話になっていたタコラーズDXが外されてスーパー玉ちゃんDXに入れ替わっている。なんてことだ。
おまけにろくな台が空いていない。ジンクスの崩壊を覚悟しつつ5000円崩して、多少はましな台があった、いままで勝てた試しのないモンキー倶楽部2Aへ。
これが、最初の500円でV入賞。しかも気がつくと15R絵柄だ。そのあと延々と、300発から600発ていど打ち込んだところで入賞というペース。15R1000発と1R80発の振り分けという性格の台でこのペースでは本来ならよくてとんとんなのだが……9回中7回の入賞で15Rを引いた。
勝てるわけのない台で、ツキだけで勝ってしまったわけだな。面目ない。

さて打ち止めの玉を流して、即座にさっきまでいた台の隣の台へ。
ずっと見るともなしに見ていたのだが、そこでさっきまで打っていたどっかのオヤジが、8回ぐらい連続で1Rを引いていたのだ。
逆に言えば、V入賞のペースが異常によいということ。台の上の大当たり回数表示も、こちらが18回の時点で33回ぐらいだった。ようするに、こちらは確率で勝ち、隣は確率で負けているという状況で、個人のツキ(上記ジンクスを参照)を考えれば隣に移れば必ず勝てるはず。
打ち止めまであと500発という付近でうだうだやっていたときは、誰かが隣に座る前にこの玉を即座に流してしまった方が……とまで思ったほどだ。

その台を打ちはじめてみると、思ったとおり500円でV入賞。しかも15R。まさに理想的な展開でほくほくしながら大当たり消化……
している最中に、あることを思い出して「あっ」と叫んでしまった。
周囲の人間がいっせいにこちらを見たぐらい大きな声だったが、それどころではない事態に気づいてしまったのだ。
(後編に続く)

ある日の出来事・後編

(前編より続く)
池袋のパチンコ店で爆発台を打ち始めていたわたしがふいに思い出したこととは。

腕時計の電池を切らしてしまって、ここんとこ時計なしの生活だった。
朝、出がけにいろいろあってあわてていたのもいけなかった。
その日は火曜日。「スーパードール リカちゃん」の放映日ではないか! 
そして、よりによってその日に限って、ビデオの予約を忘れてきたとは。
Cレヴォの終了が16時、さっき1台打ち止めしたのが、調子よかったとしておおむね2時間。「リカちゃん」の放映開始時刻は18時30分。
あわてて、隣(さっきまでわたしがいた台)で打っていた爺さんに時間を聞く。
18時15分。すっ飛ばして帰れば、後半だけならなんとか間に合う。
だが。いまこの台を打ち始めたばかりだ。このまま打っていれば簡単に打ち止めにできるのは間違いない。いまこの台を捨てるのは、1万円弱をドブに捨てるのと大差ない行為だ。ここんとこ金欠なのに。
どうせOPと前半数分を観るのには間に合わないんだし。

数分後。最初の大当たりで出た1000発ほどを流し、「この台まだ出ますよ」と時間を教えてもらった爺さんに台を譲って、店を飛び出すわたしがいた。
デートの約束を忘れていた青年、とでもいった姿に見えただろうか。(はいそこ、ツッコミ不可)
リカちゃんとの逢瀬は重要でしょぉぉぉお。織江さんメインだったしぃぃぃ。

なんでそんなんするまで「リカちゃん」に入れ込んでいるのか、自分でもよくわからないのだが。
頬のラインが嫌いだし、人形と設定が変わっているのも気にくわないし、放映開始前は、もしかしたら観ないかもなあ、ぐらいに思っていたのに。
うーむ。不思議だ。
とりあえずOP/ED曲探して近所中のレコード屋を駆け回るぐらいには入れ込んでいる。どこも売り切れってことは、全体に人気あるんだろうなあ。

1998/11/04
Webでの公開 1998/11/19

カトリーヌ様ぁ〜〜〜っ!(←バカ)

1999/03/23

美少女戦士セーラームーン

それぞれの作品には、それぞれのひとの想いが、それぞれのかたちで寄せられる。どれが優れているということはない。だが。
これほど多くのひとに、これほど広い地域で、これほど長いあいだ、これほどの熱狂をもって、支持された作品があっただろうか。空前であり、おそらくは絶後のことだろう。
なぜそこまでこの作品が愛されたかという分析は、いまさらしないでおく。たぶん、これを読んでいるあなたの心にも、その片鱗はあるだろうからだ。たとえある時期から忘れてしまったにせよ、あなたの心のスターシードは、いつまでも輝きつづけている。――こう断言できるというだけでも、あの熱狂がどれほどのものだったのかという証明になるだろう。

《出会ったときの なつかしい まなざし 忘れない》

美少女戦士たちがわれわれの前に現れたときの、興奮と感激。まさに求めていた存在、求めていたエンターテインメントが、そのまま形となってそこに現れた。それまで、そうした存在の魅力を意識せず、求めていたことにすら気づかずにいた、だがそれだけに切実な欲求。現在と過去と未来を貫き通す、ひとすじの道。作品に描かれたその道は、われわれが求めていたものの象徴でもあったのだ。

1998/12/04