マンガ

西原理恵子

「鳥頭紀行」は、マンガが(いにしえの)文学をとっくに超えているのだという事実を世間に知らしめる。無頼派が、文学のためと称して破綻ごっこをしてみせたのに対して、西原理恵子は体を張りながら、破綻のための破綻へと突っ走っていく。実在の人物の名前をつけられた登場人物たちの造型が多くはフィクションであるように、主人公であるサイバラもまたフィクショナルな人物なのだが、それにもかかわらず突っ走るエネルギーは衰えようとしない。我々にできることはただ、むしられた翼で彼女がどこまでの高みを目指して飛ぼうとしているのか、見守るだけなのかもしれない。

1998/08/22

ノンフィクション(の体裁をとったフィクショナルな)作品系列が凄絶なまでの高みに達し、なおも止まらずにいるあいだにも、西原理恵子のもうひとつの顔は活動を続けていた。それが「ぼくんち」に結実している。
大人が泣くのは「子供のころ言えなかったこと」を思い出させるような事物に触れたときだという説があって、これはおおむね正しいように思う。だが、「言えなかったこと」はすぐに忘れられてしまい(ずっと覚えていればなにかの機会にまた言えるのだから)、ただ澱のようなものが心の中にたまるだけだ。それを意識的に思い出し、一般化して抽出できるというのは、それだけでひとつの才能、と言って悪ければ努力して得た能力である。西原は、デビュー作である「ちくろ幼稚園」(の後半)から「ゆんぼくん」「はれた日は学校をやすんで」など、こうして数えれば驚くほど少ないフィクション作品において、常に子供を主人公にして、残酷なまでのリアルを描き続ける。彼女はもしかしたら、こうして泣かせることによって、「大人」への復讐を果たしているのかもしれない。

1999/02/14

永野のりこ

項目を立てたはいいが、なにを書いていいのかわからない。「みすて☆ないでデイジー」を、「GOD SAVE THE すげこまくん!」を、そして「電波オデッセイ」を、短いコラムで分析することなど、できそうにない。

1998/09/10

「電波オデッセイ」が、永野の現時点での最高傑作であることは断言できるし、「ぼくんち」「こどものおもちゃ」「BASARA」がいずれも終了した現在、進行中であるすべてのマンガの中で最高のものであると言っても過言だとは思わない。「すげこまくん」や「デイジー」、あるいは他いくつもの作品のモチーフを変形させながら語られるのは――。永野の作品は、いつでも同じテーマに行き着く。それは、メガネ少年とおかっぱ少女とか、「電波オデッセイ」がフジエダを主人公にした「すげこまくん」だろうとか、そういったレベルではない。それだけでは、「せんりつの第3マンガ家病棟」から「株リッチ大作戦!」「マンガ パソコン通信入門」、「魔女っ子ソンソン」から「ちいさなのんちゃん」に到る、ハウトゥーものや穴埋めものやエッセイマンガの類まで、すべての永野作品が同じテーマに彩られている理由にはならない。
そのテーマがもっともストレートに現れているのはむしろ、穴埋めとも自伝的エッセイともつかない作品、「かいじゅうまんが どろみちゃん」かもしれない。
《どーせあたいはかいじゅうなんだからよー!》。
みんなとは違う。自分とみんなは、どこかが違う。同じことができない、同じようには合わせられない。みんなが人間なのだったら、自分は人間じゃないのかもしれない、そのぐらいみんなと違う。自分の想いを伝えたい、それだけなのに、それは誰にも通じない。でも。孤独でいたくない、これ以上孤独でいたくない。みすてないで。GOD SAVE ME。……。
そう叫ぶ子供が、いつまでも永野の中に残っているのだろう。あとがきに余白を残せないほどのサービス精神(換言すれば「みすてないで」という叫び)が、いかにもな場面やモチーフを連発させて、永野作品の本質を見誤らせそうになる。だが、「かいじゅう」である子供にとって、あるいは「みすてないで」と叫ぶ子供が心の中に残っている大人にとって――それはつまり、おそらくすべての人々にとって――共感できるものをもたらしてくれるに違いない。

1999/02/14