少女マンガ

小花美穂

とにかく、もっともっと評価されていい作家である。現在進行中のあらゆるマンガの中で、「こどものおもちゃ」ほど凄絶なテーマとその表現を持っているものはごく少ない。ところが、これほどの作家の存在を、アニメにならなければわたしは知らなかったかもしれないのだ。一般の人どころか、たいていのマンガ好きよりもたくさんの少女マンガを読んでいると自負している、そのわたしでも、だ。これはなぜかというに、要するに優れた作品を正当に評価した情報というものが、ほとんど流通していないことに起因するのではないか。
そりゃまあ、現在ほとんどの少女マンガは(ここでは広義のレディースコミックを除く)学園ラブコメという限られた形式の中で、深くその世界を知っている者のみに通じるような差異を競っている状況であって、つまりは閉塞的であるのだけれど、ときおりこうした開かれた作品が出てきているのも事実だ。作品を実際に一読すれば、だれでも「違う」ということに気づくだろう。だがなぜか、そうした情報はあまり流通しない。特に大手マスコミにおいてはその傾向が強い。多くの人に読まれる機会がないから、また口コミなどのチャンネルに載ることも少なくなるという悪循環である。
マンガ評論の世界では、たとえば「編集王」や「ドラゴン・ヘッド」が高く評価されているが、いずれもどこがそんなに凄いのかわたしにはよくわからんのだ。いやそれなりのものだということはもちろんわかるが、はたしてこれらは、「こどものおもちゃ」より" 凄い" だろうか? こうした、閉塞的な世界同士の接点がないために有効な情報が流れないという事態、なんとかならないものなのだろうか……。

1998/08/22

先刻、「こどものおもちゃ」最終巻十巻を読み終えたところである。
仮にも小学生向けのエンターテインメントで、ここまでヒロインを(その前にはヒーローも)追いつめた例があったろうか。少なくともここ数年では、希有のことだろう。つまりここには市場に許されていない表現があり、そしてこれは、打ち破られねばならないタブーでもあった。ラストシーンが象徴しているごとく、紗南の苦悩は多くの読者にとっても自分自身のものであるのだろうし、ならばその苦しみは「語られなければならない」。思えば第一巻冒頭から、「こどものおもちゃ」は優れて現代的な、語られなければならないのに語られてこなかったテーマを扱い続けていたのだ。
小花の他の作品を読んでも想像できるように、作者は人生に対してかなりの前払いを済ませてきているらしい。そのことだけで「語る」資格ができるとは思わないが、その経験がなければ語れなかったのも、たしかなことには違いない。酒や*薬と同じように、純粋ではないものの味を知っているからこそ、純粋なものの純粋さを、怖さを、もろさを、描けるというのは、まぎれもなく真実である。
念のために書いておこう。もちろん、物語はハッピーエンドであった。

1999/01/13,「こどちゃ記念日」

条件付きなのかもしれないが、「水の館」「POCHI」のような作品が受け容れられるとしたら、『りぼん』にはまだまだ可能性があるだろう。『ちゃお』あたりに関しては(下記おおばやしみゆきの件で)見限っているんですけど。「POCHI」はもしかしたら、ちょっとすごいものだよ。

1999/12/17

おおばやしみゆき

小花美穂のコーナーで書いたことに関連して、世間を批判しているだけじゃしょうがないので、有効な情報を少しでも提供してみよう。
おおばやしみゆきは、現在「ちゃお」誌を中心に活動している。世間に提供されている情報がごく少なく、失礼を承知で言うが同誌読者以外にはほとんど知られていないだろう作家だ。(たとえばわたしは、情報誌などのメディアでもネットワーク通信でも、彼女の作品に関する情報を事実上聞いたことがない)。
ところがおおばやしのマンガは、実に面白く、かつ優れた作品なのだ。たとえば、現在までの代表作「アタック☆オン」は、正統派スポ根ものとして高いレベルに達していて、それだけでも評価に値する。基本的には明るい絵柄で、間を活かした鋭いギャグも多く、読みやすい作家の部類に入るだろう。
ただそれ以上に、「アタック☆オン」の番外編「とびいりタイフーン」から始まって、「泣いてもいいよ。」の特に前半部、「私が見ていた」などのホラー系短編から、現在連載中の「放課後チルドレン」冒頭部につながる系譜、「人間関係の落とし穴、疎外感、孤独」といったテーマを扱った作品は注目すべきだ。あの柔らかく軽い絵柄で、ここまで人間心理の暗部を描けるというのは、ただごとではない。学園ものが中心のせいか、いじめ問題を扱うことが多いので、それだけなら経験から描いているようにも見えるのだが、経験から「自分が殺人者である恐怖」は描けないだろう。たぶん。
ただ不満なのは、このテーマが長編作品において活かされていないという点だ。もしかしたら「放課後チルドレン」でやってくれるのかもしれないが。単行本数冊分もこのテーマで徹底した描写が続いたら、凄いものになるはずである。たとえば「恋するタロット」という作品は、単行本一冊の中でエピソードが前半と後半に豁然と分かれてしまっているのだが、いずれもダークなテーマを扱っている。これが全体を通して絡み合うような展開だったら、と惜しまれるところだ。
と、ここまでかっこいいことを書いてきて次がこれではもうしわけないのだが、やはり書かずにはいられない。この「恋するタロット」の最終回部分は、ある種の趣味の人にはお勧めですぜダンナ。ひっひっひ。いや多少まじめな話にすると、その手のジャンルのものまで含めても、排泄の羞恥をここまでマンガで効果的に描いた例ってめったにありません。

1998/08/22

やってくれるわ。「放課後チルドレン」第2巻の話である。担任教師を巡って小学五年生の女の子二人が火花を散らす、という展開は、コメディーにも料理できるし、もちろんその手のジャンルにも持っていける、基本的かつ優れた設定である。それだけに、どうやって読ませるかで作家の腕が問われるところだ。おおばやしはこのテーマと、真正面から切り結んでいる。小学生が大人を好きになるとはどういうことか、大人になるとはどういうことか、生きていく上では他人を傷つけなくてはならないのか、そうだとしたらどうすればいいのか。とんでもないテーマを扱おうとするものだ。そして、繰り返すようだがあの柔らかく軽い絵柄で、こうしたテーマを読ませてしまうのである。
読んで絶対に損はしない。わたしが保証する。これだけの作品が一冊あたり税込410円で読めるのは、われわれの幸運といってもいい。

1998/12/23

最近の自分にしては珍しく、まだ物語が完結していないというのに、何度も、なんども、この作品を読み返している。読み返すたびに、松野が可愛らしく見えてくるというのは、これはいったいなんなのだろうか。典型的なライバル役として描かれているのに、その心情は全きリアリティーをもって表現されている、そのためだろうか。

1999/01/13

この「少女マンガ」のページの更新が事実上半年以上も停まっていたのは、ひたすら申し訳ない。こういうことになった最大の理由は、「放課後チルドレン」終了の件に触れたくなかったからだ。もし人気がなかった、年少の読者に受けが悪かったという理由なら、愛読者として悲しむべきことではあるが、ある意味でやむを得ない。だがその理由が、設定やモチーフに対する外部からの意見に左右されたのだとしたら。これは被害妄想でしかないのかもしれないが、そう考えるだけで憤りを感じる。
上では2巻を「何度も読み返している」と書いているが、完結巻である3巻を、じつはまだ読んでいない。あとがきを先に読んでしまってから、仮想の対象に対する憤りが先に立ってしまって、いつでも読める場所に置いてありながらどうしても手を伸ばす気になれないという状況なのだ。したがって作品に対する具体的な評価は、もう少し自分が落ち着いてからにしたい。半年経っても落ち着かないものが、いったいいつになったら収まるのか見当もつかないのだが。『ちゃお』では元気よく新連載が始まっているようで、少なくともそちらの単行本が出てからになるのではないかと思う。

1999/09/04

「100万回きかせてよ」の第1巻も無事発売されたので、安心して「放チル」全3巻を読む。うーむ。知らん間に、こんなことになっていたのか……。もっと早く読んでおけばよかった。
人物描写の基本は、リアリズムであること。たとえどんなに設定やモチーフが異様なものだったとしても、人物だけはリアルであること。作品の価値とは、そうしたところにあるのだと、改めて確信できる。

というわけで「100万回〜」も読む。作者は動物マンガと称しているが、じつはこれはまずいものマンガではないのか。でも、こういう現実もあるんだろうね。わたしのように、昼飯が終わると晩飯のことを考えはじめるタイプの人間には想像もつかないが、食べるという行為に明らかに興味のない人間っているから。フリートークなどを読むかぎり、おおばやしは食べることに興味を持つタイプの人間で、にもかかわらず興味ない人間を描写できるところが、またリアリズムの勝利である。
作者は、かなり以前の話になるがたしか「とびこめLOVE!」のフリートークで母親との関係を語っていて、あれ、女性にしては珍しく母親との関係はいいのかなあ、と思っていたのだが、作品を読んでいくとやっぱりそうじゃないというのは見えてくる。さすがに自覚してやっているのだろうが。たぶん、『ちゃお』の読者(の中のおおばやしに傾倒できるレベルの読者)にとっては、これは切実なテーマに違いない。反発と同時に、母親から受け継いだものが逃れられない枷として自分の中に存在するというアンピヴァレンツは。
絵に関してなんですが。表紙を見た瞬間気づかなかったぐらいだから、絵柄を変える作戦は成功しているのでしょうねえ。でも、《おおばやしみゆきの》魅力って、そういうことではないような。好きな絵柄のマンガ家を問われたら、わたしなら「『放チル』2巻あたりのおおばやしみゆき」と(あるていどの限定つきとはいえ)答えるんだがなあ。

1999/12/17

小坂理恵

こうなるとやはり触れないわけにはいかないか。現在、「なかよし」を中心に活動している作家だ。
絵柄はクセが強いし、ストーリーに深みがあるかといえばそんなことはないし(軽いだけの話でもないが)、上記おおばやしとは逆にいじめを容認しているような部分があってその点が気にくわない。というより主人公の行動がただのマゾだったりする。
んだけど、面白いんだよな。なぜか、妙に気に入っている。あれだけクセのある絵柄をここまで完成させたのはたいしたものだ。

1998/08/28

上では投げやりな書き方をしてしまっているが、読んで損のない作家であることは間違いない。今月号で完結した「ヒロインをめざせ!」は、〈なにか、イヤになるぐらい、くだらないまんががかきたくて〉描いたと作者が単行本冒頭で述べているのだが、なかなかどうしてそれだけではない。そもそも、そういう発想をすること自体が、一筋縄ではいかない作家であることを示している。第2巻に収められるだろうストーリーは、大メロドラマとしてシリアスに描けば、かなりのものになったはずだ。もっとも、それが現状より面白くなるかというのは、また別の話である。つまり、この作家は効果的な表現の方法を知っているということだ。

1998/12/23

連載中の「トップオブザワールドな人たち」では、絵柄をリアル指向に大きく変えてきて、演出面でもギャグを押さえぎみにしているようだ。それでも、シチュエイション自体のナンセンス加減を含めて面白く読ませる力は、たいしたものだが。

1999/09/04

彩花みん

子供は残酷である。特にそれと意識しないまま、大人からみれば残酷なことを平気でする。
つまり大人のような知恵を持っていないからであり、普通は成長するにつれて、やっていいことと悪いことの区別がつくようになるものだ。いい大人になってとんでもないことを平気でやらかす輩もいるが、こういうのは単に成長がないだけなので論外である。
「子供の純真」を保ったまま大人になることは難しい。この「純真」は、綺麗ごとだけではない。子供が善悪の判別なく残酷なことを平気でしてのけるのも、「純真」だからだ。一方で大人の判断基準を持ちながら、子供がどんな行動をとるか予測するのは、これは非常に難しい。
彩花みんは、それをやってのける。そして驚くべきは、どうやら無意識にやってのけているらしい、という点だ。同じキャラクターが、ときには「大人から見た子供らしさ」で行動し、ときには純粋に子供の発想としか思えない行動をとる。後者の場合、おそらくキャラクターは作者の無意識によって行動しているのだろう。予防注射をいやがる子供が逃げ回り(ここまでは予測の範囲だ)、あげくのはてに道路へ飛び出す。たまたま無事だった子供を、保護者は涙ぐみながらひっぱたく。このシークエンス、はたして計算しながら描けるものだろうか。
「赤ずきんチャチャ」に関して、アニメ版への評価とは別に、わたしは原作を非常に高く評価している。わたしが読んでいる範囲ではおそらく他に類例がない、人間の原存在を描いた作品であろう。

1998/09/10

単行本第10巻にいたり、子供への優れた視点はますます鮮やかになってきている。
〈ぼくもう4つだし 大きいから泣かないんですー〉。たしかに四歳の子供、ことに親に放置されている子供は、こういう言い方をする。だが、それに気づいていた作家(マンガ家でも、小説家や脚本家でも)が、どれだけいるだろうか。身近に子供を観察しているせいかもしれないが、四歳の子供を持つ作家だっていくらでもいる。
連載半年分に一度ぐらいは新しいキャラクターが登場し、あるいは既存のキャラクターの過去が判明していく。それぞれ異常な部分を持つキャラクターたちの、異常たるゆえんが、そのたびに明確にされていく。たとえば、どろしーが幼なじみであるセラヴィーの親を知らないというのは考えづらく、わりと思いつきで登場させていると推測できるのだが、その親の異常さ(本人に責任のあることではないが、父親役と母親役が混交し、子供のペットを平然と虐待し、年に数ヶ月にわたって子供を放置してしまう)は、これまでに述べられたセラヴィーの異常さ(人を人とも思わないのに過剰に人との接触を求め、恋愛においてすら心底からの交流を拒否する)にぴったり符合している。
信じられないことに、あのちょこまかと動き回ってシュールなギャグを放つ三等身のキャラクターたちは、じつにいきいきと描写された、すぐれて「生きたキャラクター」なのだ。久しぶりに登場したやっこちゃんやマリンの体型が、しばらく前と比べると成長していることにお気づきだろうか。

どういうわけか、りぼんマスコットコミックスは短編集を除いて目次がついていない。長編ならいいのだが、「チャチャ」のような連作となると、エピソードの検索に思わぬ時間を費やすことがある。というわけで、個人的な便宜のために作成した「赤ずきんチャチャ」単行本目次を、せっかくなので公開しておく。
タブ区切りプレーンテキスト形式なので、WWWブラウザで見るより、ダウンロードなりしてから適宜再加工してご利用いただきたい。

「赤ずきんチャチャ」単行本目次(11巻まで)

1998/12/23

11巻に合わせて、単行本目次を改訂しました。
しかしこの11巻だけ読んで、「赤ずきんチャチャ」の主人公がチャチャだと思う人間はいないだろうなあ。しいねちゃんあたりとほとんど同じ扱い。単行本のカラーに登場したのも、じつは8巻が最後である。ていうか最近ほとんど男の子たち中心の話ばっかりだし(笑)。

1999/12/17

赤石路代

好きなマンガ家を挙げよ、どうしても一人だけ。という条件を出されたら、それは多少迷ってからだろうが、たぶん彼女の名前を挙げることになるだろう。
「本と目が合う」という言い回しがある。書店に並ぶ無数の書物の中で、ある一冊だけがいきなり視界に飛び込んできて、気になってしょうがなくなりついには買ってしまうという現象を指す。「姫100%」の、たしか3巻がそれだった。もちろんそのとき、全四巻を一気に買ったのだが。そのころはまだあまり少女マンガを読まない人間だったので、レジに持っていくのがかなり恥ずかしかったような記憶がある。いま思い出したんだけど、たしか当時はサラリーマンやってて、会社帰りでスーツ着てたんじゃないかな。
だが、そんなことは忘れさせるだけの迫力を持つ表紙だったし、もちろん恥を掻いたとしても割に合うだけの作品であった。仕込み刀背負ってオフロードバイクにまたがるセーラー服ですぜ。これで読まなきゃ男じゃないでしょう。ストーリーも含めて、あんなかっこいいキャラクターをせめて一度は書いてみたいものである。
片思いの相手が囚われた恋人を救いに行くのを、命懸けで手伝おうとするヒロイン。その姿に、ヒロインにやはり片思いしている脇役はつぶやく。
〈ああ……姫さまは、そういうふうに人を好きになるんですか……〉

そして傑作「天よりも星よりも」(なんでこれ文庫とかにならないんだ?)をはじめ、そのころまでに出ていた作品をひととおり読んだところに、「『あると』の『あ』」が現れた。これについては、相生がぜひなにか書きたいと言うのでそちらにまかせる。個人的な理由を抜きにしても赤石路代の最高傑作のひとつだと思うのだが、どういうわけか世間での評価というものを聞いたことがない。この作品に限らず、彼女への評価は不当に低いような気がする。これだけ固定ファンがいて(周囲で心当たりの人間に聞いてみるとたいてい読んでいて、皆それなりの評価をしている)これだけ世評が低い作家も珍しいのではないか。いまだに代表作が「アルペンローゼ」だと思っているやつがいるぐらいだ。これは(事実上の)初長編で、初期作品もいいところなのだが。
以降の代表作といえば、やはり「P.A.(プライベートアクトレス)」「ワン・モア・ジャンプ」か。わたしがスポ根、舞台根に弱いということを差し引いても、お約束だとわかっているのに感動させられてしまうテクニックはさすがだ。面白いのが、「天よりも」と「姫」「『あると』」、「P.A.」と「ワン・モア」のように、彼女の代表的な長編はそれぞれ平行して連載されていることが多いという点だ。そのパターンでいうと、現在の「サイレント・アイ」「永遠かもしれない」の同時進行には期待できる、ということになるのだが、どうなんだろうな。舞台ものと並ぶ彼女のもう一つの重要な柱である伝奇もののジャンルでは、「アスターリスク」「夜が終わらない」と続いてしまったので、「永遠かもしれない」にはがんばってほしいところなのだが。
ところで、秋の新ドラマのタイトルに「P.A.」ってのを見かけたんだが、まさか、まさかじゃないだろうな。天才女優の話をアイドルドラマでやるなんて真似は、まったくいいかげんにしてほしいものである。

nuts
1998/09/22

あんなもん「P.A.」じゃねえ! しくしく。かすかにでも期待していた方がバカなんだろうが。
そういえば「SAINT」って作品もあったんだよな(遠い目)。やっと完結巻が出たので思い出した。いやもちろん優れた作品なのだが、二年に一冊のペースで単行本出されてもなあ……。

nuts
1998/10/17

「永遠かもしれない」6巻を読み終えたところである。上で示した危惧は、見事に杞憂に終わってくれたようだ。導入部だけで作品を判断してはいけないという好例である。
いままでの赤石作品では、主人公はつねに「強い少女」か「成長する少女」であった。「謎を秘めつつ強くなっていく少女」が描かれるのは、これがはじめてではないか。「天よりも」における美緒も謎を秘め、成長するが、「永遠かも」のこすもとはかなり印象が違う。美緒の謎は収束していくタイプのものなので、彼女の人間的成長とリンクしていないためだろうか。
このキャラクターとストーリー展開は、言うまでもなく魅力的である。「永遠かも」の途中から絵の雰囲気が変わった、もしくは変えたことも、その印象に一役買っているようだ。作品を導入部で判断してはいけないのと同じく、半ばで判断するのも間違っているのだろうが。
ところで、6巻の段階で「半ば」といっていいのかなあ。単行本全9巻という例が三つもあるのだが、10巻の壁は破れるのだろうか。内容を読むかぎりでは、あと3巻で収拾がつくとは思えないんだけどなあ。

nuts
1999/09/02

「あると」の「あ」/赤石路代

この作品に、わたしは魂を救われた。
ちょうどそのころわたしは、生まれてはじめて小説を人前に発表し……猛烈かつ理不尽な非難を受けていた。それはたとえば、「オチらしいオチがないじゃないか」とか「『自分の鼓動しか聞こえない』という表現は非科学的だ」とか「事件はなにも起きないのか(殺人事件のようなものを指しているらしい)」とか、およそ小説に対する批評とは思えないようなものばかりだった。いちばんもっともだと思った意見が「アップロードする場所を間違えている」だったのだから、なにをかいわんや、だ。そしてそれらが、必要以上の罵詈雑言を伴って襲いかかってくる。
この小説を読んでいただければたぶんおわかりだと思うのだが念のため、上記の非難はなにをどう考えても的外れである。いまの自分からすればひどく未熟だとは思うものの、当時としてはそれなりの完成度を持った作品のつもりだったし、だからこそはじめて人前に発表しようという気になったのだ。
味方は事実上いなかった。そのネットワーク通信の常連メンバーほぼ全員が、直接間接にこの攻撃に加わってきていた。このばかげた状態が、およそ2週間は続いたのではないか。いま思い出しても気分が落ちこんでくる。
ちょうどそんな騒ぎの渦中にいるとき、「『あると』の『あ』」の2巻が発売されたのだ。

〈それでもピアノはやめられないのでしょ
 好きだからでしょ
 
 何がこわいの
 だれかの言葉が?
 
 何をなくしても
 いつでもピアノが弾けるのに
 
 弾けなくなることにくらべたら
 いったい何がこわいの?〉

この言葉に出会わなかったらわたしは、少なくとも小説を書き続けてはいなかっただろう。

1998/09/22,相生浩史

ひろせ笑

処女単行本「この胸はじけちゃう!」が講談社から出たばかり。
じつは、その手のネタかと思って買ってみたらやっぱりその手のネタだったので満足である。そのネタそのものは表題作1本だけなので物足りなかったが。という以外に書くことがあまりないので困っていたりする。まあ、作品的にはね。この先、いくらでも上達するでしょうから。
あ、ちゃんと自覚して開き直っているところは偉い。歯医者で治療を受けるときの快感なんて、普通の人は思っていても描かないよ。今後ともフェチ道を極めるべく精進してください。

1998/09/22

森尾理奈

フレンドから現在はデザートで描いているこの作家本来の資質は、「この空を抱きしめる」に代表される、やや汗くさい青春ものだろう。古めのタッチが、そういう路線にうまく合っている。だが。
純粋な少女マンガで、上記ひろせ笑のところで書いた「その手のネタ」といえば、森尾の「よいこはセクシーダイナマイト」にとどめを刺す。すぎ恵美子の「ア・リ・サ」も(珍しい膨乳ネタという点で)捨てがたいが。なんか最近青年誌で「よいこ〜」をパクったような作品を見かけたが、あんなもんは却下である。
ああもう、さくらちゃんかわええなあ。小学生でEカップでおバカで。あんな娘の家庭教師できるなら人生捨ててもいい。「カードキャプター」のさくらちゃんと「バーコードファイター」の桜ちゃんの次ぐらいにかわいいよな。異議は却下。

1998/09/22

すぎ恵美子

まあ「AOI・こと・したい」までさかのぼるとは言わんが、「くちびるから魔法」の前半あたりと比べても、それ以降、「U・BU U・BU」「ア・リ・サ」あたりの絵の魅力は素晴らしかった。することもそれなりにしていたし。ところが、最近はどうしたことか。「ラブ ハンターREN」あたりははデフォルメが行きすぎたものとしても、「ボディー・トーク」のあれはないだろう。顔の縦横比伸ばせば大人向きの絵柄になるってわけじゃないぞー。
「本来の絵柄」というものがなくて、時々の流行を取り入れるのに熱心だというのもわかるし、正しいことではあるのだが、できれば「ちょっと前の流行」に戻ってきてほしいなあ……。

1998/09/22

吉住渉

さいしょは「ハンサムな彼女」という題名に惹かれて、そういうアレかと思って読みはじめたのだがべつにそういうアレではなかった。んでまあいいや、と思っていたんだが、「ママレード・ボーイ」のアニメ版の話を聞いていたら、どうもまた別のそういうアレらしいということに気づいてまた読みはじめたというわけだ。「君しかいらない」を経て「ミントな僕ら」でやっと、最初考えていたようなそういうアレが出てきてくれたのでじつに嬉しい。なにを言っているのかよくわからないかもしれないが、とりあえず読んでみていただきたい。だてに『りぼん』で、最大部数を誇る少女マンガ誌で看板張っているわけではない。
こんな話ばっかりしているのもなんなんだが、実際そういう仕掛けばかりしてくれるのでこっちとしては乗るしかない。彼女の絵は、なんだろう、巧いんだよな。デッサン云々という話ではなくて、フェロモンを撒き散らしているような、ひどく魅力的に感じる巧さだ。そこに(「ママ・ボー」以降の作品では必ずと言っていいほど)倒錯した性的な題材が絡んでくるので、サブリミナル的に惹かれていく、ということなのだろうか。
ところで、単行本のフリートークで毎度まいど「いつまでも『りぼん』で描いているつもりはない」といったニュアンスの発言を続けているのは、どんなもんだろうか。もちろん本音なのだろうが、いちおうそれを読者に語りかける形式でやっているわけだからね。現在の読者、わざわざ単行本を買ってくれるほどの貴重な愛読者に対して、「あんたたちの相手なんかいつまでもやってらんないよはっはーん」的な発言をするのはどうかと思う。それに実際問題として、たとえば『マーガレット』に移ったところで、本人が期待しているほど読者の質がいきなり向上するとは思えないのだ。『コーラス』あたりならともかく。あるいはこの一連の発言、編集者だけを意識してのものなのかもしれないが、それではあまりに読者の姿が見えていないと指摘せざるを得ない。

1998/09/27

安藤なつみ

KCなかよしから初単行本「ツイてるね聖ちゃん」が出たばかり。作品としては、可もなく不可もなくよりちょっと上ぐらい。絵柄は、わたしの好きな線よりほんのちょっと今風に偏っているのだがまずはよし。キツネっ娘にはちょっと弱い。トータルすると「ファンというほどではないが単行本はしばらく買い続けるだろうていどに好きな作家」だな。なんでそのていどのことで取り上げるのかというと、ペンネームが気になったからだ。
この連載が始まるまで、この人はたしか「安藤なつみ」ではなく「安藤なつ」というペンネームだったと思う。じつは昔、たしか少女ホラー系だったかにまったく同じ名前のマンガ家を見かけたのだが、さすがに別人だろうなあ。十年ちかく前、マイナー出版社でたぶん一冊しか単行本を出していない名前をそのまま使って、メジャー誌で再デビューというのも考えにくいから。あるいは、同姓同名の作家がいたことを指摘されてペンネームを変えたのかもしれない。とすると、同じことを考えた人間がこの狭い世間に三人はいたということになる。これは気になるでしょう。
三人。ちょっと勘定が合わないようですが、いやそれがその。
わたしのnutsという名前なんですがもちろん由来は食べる木の実じゃなくて米俗語のいわゆるアレでといっても下半身じゃなくて頭のてっぺん方面のことなんですがなんかそういうたとえば風狂人とか狂四郎とかそんなふうに名乗りたがるようなそういえば北杜夫の初期の小説に「狂詩」というのがありましたがああいう感覚の時期ってあるじゃないですか誰でもきっと。ただ、nutsだけだとハンドルネームにはなってもペンネームとしては使いづらい。最近の人は平気みたいですが、わたしはそういうのダメなんだ。でまあ名前の方は夏でも奈都でもてきとうに文字を当てはめるとして、その上につける適切な姓はないか。しばらく考えた末にひょいと思いついたネタがおかしくて、風呂場で一人にやにやしていた記憶があります。考えてみるとあれはもう十七年ほど前だ。ところが、そのフルネームを使う機会がないままに過ごしているうち、なんとなく使うのがいやになってしまって。ちょうどそのころ、安東熱志(になる人物)がペンネームを考えていたので協力して、その姓を譲ってしまったわけです。安東という字面じたいは気に入っていたんで、そういう形でも身近に残ってくれればいいかな、と。
これ以上続けるとどんどん墓穴を掘ってしまうのでそろそろ切り上げますが、そういうわけで作者のペンネームが気になって読みはじめたら当たりだったという珍しい例でした。餡ドーナツって食べものは、別に好きじゃないんだけどね。

1998/10/18

いつのまにか、『なかよし』の看板作家になっているな……。なぜか、わがことのように嬉しい気がするぞ。(笑)

1999/09/04

岡野史佳

ごらんのとおり少女マンガファンのくせに、どういうわけか白泉社系はほとんど読んでいない。本気になるとキリがないことがわかっているから、意図的に手を出さないという面もたしかにある。その中でわずかな例外が、岡野史佳というわけだ。「フルーツ果汁100%」の二巻が出たころに『目が合って』しまい、「惑星Aの子供たち」あたりの短編からハマっていったような記憶がある。長編で好きなのは「太陽の下でまってる」かな。岡野ファンとしては、渋い方に行っているんじゃないかと思う。もちろん「フルーツ〜」も「イリスの卵」も好きなんだけど。
なんだけど、いまいっちゃん気になってんのが「ラブリー百科事典」なのだ。だいたいタイトルからしてこのケーハクさはなんだ。それに輪をかけた中身はなんだ。最初に読んだときは、作者はなんかつらいことでもあってどうかしたのかと思った。考えてみたら「ChatterBox」のノリを長編でやっているようなものなんだろうが。なんというかその、誰でも持つような感想しか言えないのだが、なんなんだろうなあこの作品。面白いんだけど。むちゃくちゃ。絵がちょっとナニになってきたのだけが気になる。
というわけで、時代はキツネっ娘です。いやむろん、かすみちゃんは超ド級だが。

1998/10/18

「オリジナル・シン −原罪−」は、考えてみると初めてのSF長編なわけで、このジャンルで力を発揮できる作家だということを証明する作品になる、はずだ。わたしはいまのところ、そう読んでいる。「ラブリー〜」と並行してこういうものを描けるというのは、しかしいったいどういう精神構造なんだろうな。

1999/09/04

篠原千絵

精神分析の手法による少女マンガ批評の試み・1
篠原千絵作品の精神分析批評

概論:

 少女マンガ作品を批評するひとつの試みとして、作品に現れたものからから作者を精神分析する、精神分析批評のかたちをとってみた。もっとも論者は、文芸批評のあり方についても精神分析についても素人なので、未熟以前の代物であろうと思う。あくまでも試みとしてお許し願うとともに、諸兄姉のご指導を願いたい。またあらかじめ、素人診断で失礼を述べる作者諸兄姉に御堪恕を乞うておく。
 なお、文中敬称は略す。

篠原千絵の長編作品:

各作品の分析:

凡例――
 ○作品開始時点の基本設定
 ・作中のモチーフ
 ※コメント

「闇のパープル・アイ」

 ○主人公に母親はいない。父親の影は薄い。妹がいる。
 ・前半の戦いは、妹を殺された復讐のため、という要素が大きい。
 ・後半では、娘(年齢的には妹のイメージ)を護るために犠牲になる。

「海の闇、月の影」

 ○主人公に両親の影は薄い。双子の妹がいる。
 ・妹が最大の敵である。が、妹であるがゆえに決着をつけられない。
 ※テクストが手元にないため、不正確かもしれません。

「陵子の心霊事件簿」

 ○主人公に両親の影は薄い。兄がいる。
 ・兄に乗り移った人格が恋愛の対象となる。

「蒼の封印」

 ○主人公の両親はすぐに殺される。兄がいる。
 ・兄の姿をとった人格が対立者であり庇護者として働く。
 ・妹(実は娘)が対立者となる。決着をつけられない。
 ・主人公は実際にはクローン体であり、両親は存在しない。

「天は赤い河のほとり」

 ○主人公は両親と妹とすぐに別れる。
 ・妹に似た少年のための復讐が、戦う理由になっていく。
 ・主人公の恋愛対象は、義理の母親と対立する。また、弟を庇護しながら一度は裏切られる。
 ※現在連載中。

結論:

 あらためて分析するまでもなく、共通するモチーフを取り出してみるだけで作者の心理は容易に読み取れるだろう。妹の存在が、最大のキーとなる。
 すべての主人公にとって、妹は「護るべき存在」である。ゆえに、(母性原理を前提として)娘として描かれることもある。主人公が妹の立場になった場合、それは兄との恋愛感情として現れる。
 だが同時に、妹は「対立者」ともなり得る。おそらく、こちらの方が深層意識に根ざした本質なのだろう。言うまでもなく、すべての子供にとって兄弟(特に弟妹)は、両親の愛情を奪いあう対立者として自我の中に登場する。
 しかし、超自我は年少の弟妹を「護るべき存在」として規定しているために、「対立」は表面的には現れないことが多い。深層意識の「対立」(「憎しみ」と言い替えてもいい)が強いほど、超自我は「愛情」「護るべき存在」という点を強調する。にも関わらず、作品の創作は深層意識を掘り起こす作業であるため、「対立」のモチーフが現れやすくなってしまう。あるいは、あくまで「愛情」を強調しながら、物語の中では妹を惨殺するようなかたちでバランスをとろうとすることもある。
 また、篠原作品に登場する「妹」は、なぜかすべてショートカットのキャラクターである。主人公がさまざまなタイプであるのとは対照的だ。なんらかのモデルを想定してもよいのかもしれない。
 なお、篠原の作品において両親の実質的不在がなにを意味しているのかは、今後の研究課題である。「天は……」において、主人公(ヒロイン)の恋愛対象(ヒーロー)の立場から分析してみることも必要かもしれない。

1996/09/22
Webページへの登録:1998/10/20

武内直子

マンガ「美少女戦士セーラームーン」が優れた作品であったという、この結論自体にさして異論はないだろうが、その評価がどうも前半に偏りすぎているように思う。単行本にして全18巻を通し、ほぼ同じテンション、同じ面白さを保っていたとわたしは思っている。ごく一部を除いて。
当初から熱狂的に受け容れられたことで、作品の消費される時期が早まったのは、マンガとしての「セーラームーン」にとって不幸だった。もちろん、あの熱狂がなければ、「単行本二冊ぐらいで終わったキワモノのマンガ」という評価しか得られなかったのかもしれないが、そうだとしたら幻の傑作という評価も得ていたことだろう。華麗とセクシーの境界にある絵の魅力や、なによりキャラクターたちの造型については、ここで触れるまでもないはずだ。
第一部において、たとえばセーラーヴィーナスが登場する場面は《戦隊もの》ジャンルにおいて屈指の名シーンだったとか、そういう例はいくらでも挙げられる。(この例は原作に限った話である。戦隊ものにおける理想は、他の独立した作品で主役を張れるほどのキャラクターが集結する「凄さ」であり、頭数を揃えればいいというものではない。「コードネームはセーラーV」という、いちおう独立した作品で主役を演じていた愛野美奈子がチームの仲間として参加する面白さは、マンガ版にしかない)。
だが第五部「セーラースターズ編」に至っても、それに近いテンションはずっと保たれている。スターライツのキャラクターに違和感がなかったとはいわないが、彼らは原作者のこだわりであった「性別を超越したセーラー戦士」の再登場だ。マンガ版において、初登場のときの天王はるかが、タキシード仮面に似た完全な男性として描かれていたことを想起してほしい。
ラストにいたり、敵の強さがエスカレートしすぎてその先を続けられなくなる、いわゆる「ドラゴンボール現象」(ただしこれは現象に対する俗流の命名であり、鳥山明の作品「ドラゴンボール」そのものは、多くの者が考えるようにはそうした破綻に至っていない)に陥った時点でも、「セーラームーン」はさらに先を見ていた。無限の時空で戦い続ける銀河最強の戦士というイメージを提示し、そして、その強さの由来を説明する。当初からこの作品が、ずっと同じテーマに貫かれていたことを証明するために。

《あたしはいつだって
 平和や正義のためなんかじゃない
 愛する人のために 仲間のためだけに
 戦ってきたの》

月野うさぎというキャラクターが魅力的だったのは、彼女が戦士になろうと、プリンセスになろうと、「ふつうの女の子」でありつづけたからなのだ。

武内の他の作品をこの調子で誉め続けるのは、実のところちょっとむずかしい。長編の方が資質を活かせる、ということはいえるだろう。
ところで、『なかよし』での次の連載になる「ぴいきゅうエンジェルズ」の続きは、いったいどうなってしまったんだ。けっこう面白かったのになあ。「アニメがらみの仕事をすると『なかよし』と縁が切れる」というジンクスは健在だったのか。

1998/12/04

ご結婚おめでとうございます。
冨樫義博とはね。あそこまで大物カップルだと、さすがに天然ツッコミを自認するわたしもなにも言えんわ。ところで、「ぴいきゅうエンジェルズ」の続きは?(言っとるやんか)。
ついでのように書いておくが、さいきん再流行の怪盗ネタを'90年代に蘇らせたのが「セーラーV」「セーラームーン」であることは、あらためて指摘しておいてもいいかもしれない。

1999/01/13

藤井みほな

じつは好きじゃないんだ。それがどのぐらいかというと、わざわざここに書くぐらい好きじゃない。買って失敗したと思った少女マンガは、ここ数年でいくらもないのだが、「龍王魔法陣」はそれにあたる。
マンガ家が、楽しんでマンガを描くのは、悪いことではない。つまらないと思いながら描いていたら、けっして読者を楽しませることはできない。読者を楽しませることが、エンターテインメントの最優先事項であり、作家は常にそれを目標とすべきだ。だが、楽しんでいるのがマンガ家だけで、読者を楽しませること、読者に伝達するべきことを忘れているのは、本末転倒といわざるをえない。
『りぼん』の若手作家においては、これ、編集者の責任もあるんじゃないかと思うけどね。

1998/12/23

椎名あゆみ

まあなにをいまさら、『りぼん』を代表する作家をわざわざ取り上げることもあるまいとは思う。誉めるとしたらありきたりの言い方になってしまうし、問題点を指摘しようと思っても思いつかない。逆に言えば、そのすでに完璧すぎるところが、意外性に乏しくて不満ということにもなるのだが、これはないものねだりだろう。
念のため注釈しておくけど、ものすごく誉めてるんですよ、これ。

1998/12/23

種村有菜

じつは10月ぐらいから、妙に出版社側が力を入れていることに気づいて「これは」と思っていた。先物買いというやつをしてここに書き込みあとで威張ろうとか考えていたんだが、いまとなってはすっかりタイミングを失ってしまいましたな。『りぼん』も、「ファンシーララ」でメディアミックス戦略に失敗してもう後がないから、わりとなりふりかまわない態度に出ていますね。椎名あゆみでも池野恋でもいると思うのだが。
で、「神風怪盗ジャンヌ」。うーん。まあたしかに、面白い。現代的なセンスというやつなのだろうし、それが藤井みほなのように悪い方向に出ているというわけでもない。「ジャンヌ」以外の作品を読んでみても、ストーリーやキャラクターをよく練っていることがわかる。
ただ、これは杞憂というか考えすぎなのかもしれないが、この作家はほとんど「マンガを読んでいない」のではないだろうか。もちろん、まるで読んでいないわけではないだろうが、マンガを「意識して」「好きだから」読んだという経験はなさそうだ、という意味である。
「ジャンヌ」にしても、メディアミックス企画として(意識しすぎるぐらい)先行作品を研究した、としか思えない部分を除けば、それはうかがえる。少女怪盗というアイディアからはどうしても「怪盗セイント・テール」が連想されるのだが、種村自身がこの作品を意識している節は感じられない。それが良かれ悪しかれ、である。忍者ものにせよ超能力ものにせよ、先行する膨大なマンガ作品があり、一定のスタイルが成立していて、それをパターンとして採用するか拒否するかはともかく、たいていの場合にはなにがしか意識して描くものなのだが。
これはもしかしたら、マンガにひとつの革新が起きつつある、という事実を示しているのかもしれない。小説と呼ばれるジャンルでは、昔は小説を好きで書きはじめた作家ばかりだったのに対して、最近はマンガや映画からスピンアウトしてきた、そういうものの影響しか受けていない作家が増えていて、一定の(かなり大きな)割合で市場に受け入れられているという事実がある。ヤングアダルト小説に限らず、一般向けの広義のミステリー(エンターテインメント)でもそうなのだ。これは、メディアとしての小説の寿命が終わっていることを示すものだろう。小説をけなしているわけではなく、たとえば日本の映画にも同じような事態は起きている。同じようなことが、いずれマンガにも起きるのではないか、という予測はされていたのだが、あるいは種村有菜の登場とその作品のメディアミックス化が、その始まりとなるのかもしれない。今後の展開には充分注目すべきだろう。

1998/12/23
一部改稿1998/12/24

「マンガ好きではない」というあたり、もしかしたらちょっと読み違えていた、先入観に走っていたかもしれない。全体への評価が大きく変わったわけではないが、その点については謝っておきます。

1999/09/04

飯坂友佳子

けっこう長い間、のんべんだらりというかなんとなくというか読者としてつきあってきているのだが、本質的に面白いと思ったことはない。ようするにこれも、作者だけが楽しんでいるといった作風であるためだろう。藤井みほなほどひどいわけではないが。
ただ、最近刊「月光のディアナ」に関しては、上記「神風怪盗ジャンヌ」を読んだ直後だったためか、なかなか興味深く読めた。飯坂作品の系列においては「また」怪盗ものか、ということになるのだが、それだけに、と言っていいのか、非常に手堅い作りでこのジャンルの王道を踏んでいる。そういう点では安心して読める作家であるともいえるのかもしれないし、これはある意味で得難いことではあろう。

1999/01/13

立川恵

ここまで続けてきたら、「怪盗セイント・テール」について触れないわけにはいかないだろう。じつは最近再読してみて、あんがい面白かったことに気づき驚いているところなのだ。失礼な言いぐさだが、前作にして初長編である「熱烈台風娘」の面白さに一発でハマりそれっきりになっていたので(しかしあまり評価されていないようだが、この作品はほんとうに面白いよ)、いまひとつ「セイント・テール」にはのめりこめなかったというのが正解だったのだろう。さらに、次の作品である「夢幻伝説タカマガハラ」において、ファンタジー・アクションとしての表現がさらに進化しているため、ますますそうした印象が強くなっていた。
違うのだ。読み方を間違えていた。「セイント・テール」は純粋かつ正統派のラブロマンスであって、怪盗ネタとか魔法(magic)にしか見えない手品(magic)とか、そうした小道具にまどわされてはいけなかったのだ。「怪盗」は「好きな相手に素顔を見せられない苦しさ」を、「magic」は「韜晦によってしか想いを伝えられない苦しさ」を象徴している。つまり、単に極限的な状況を設定してあるだけで、そこに描かれている少女の心理は、まちがいなく一般的な、だれにでもある恋愛感情のみである。この視点から再読してみると、ヒロインである芽美の感情、アスカJr.との関係は、完璧に描写されている。

1999/01/13

ところで新連載の「電脳少女☆Mink」は大丈夫なのか。サイバーで変身でアイドルものって、それで本当に大丈夫なのか。電通とセガと東京ムービーにちゃんと話は通してあるのか。

1999/09/04

田村由美

「BASARA」の単行本は、もちろんすべて発売日に買っているのだが、たしか19巻あたりから現在24巻まで積ん読状態で手をつけていない。
1冊づつ読むなんて、もったいなさすぎてできない。
初期のエピソードも再確認したいのだが、それをやれば1巻から最新刊まで一気に読んでしまうことは目に見えているし、それがあと数巻で完結というところで中断されるのでは、たまったものではない。読み進めていて、でも読むのがもったいなくて、本の残りページを数えながらそれでも読み続けることをやめられないという経験は読書好きならだれにでもあると思うが、それが二十数巻にわたって持続するのだ。つまり、それだけのことを思わせる作品なのである。
もうじき、本編完結の25巻が出る。そのときやっと、1巻から通して一気に読むことができるだろう。こんなに待ち遠しいことはない。具体的な評価は、そのときになってからとしよう。

1999/01/13

「全体小説」という概念がある。人物の行動を記述しながら特定のテーマに絞らず、社会から人間全般のすべてを描き尽くそうと試みる小説のことだ。小説に可能なことならば、当然「全体マンガ」という概念も成立しえる。これが、少女マンガという商業的ジャンルで試みられたことがあったのか、そもそもこの「BASARA」という作品が最初からそうしたもくろみの元に描かれていたのかは、わからない。だが、結果としてそう呼べる、呼びえるものになったことは、間違いないだろう。
作品そのものへの感動をここに記述することは、たやすい。(いや、言葉でこの感動を表現するのは非常に難しいことではあるが)。だが同時に、作品そのものが持つ意味まで考えたとき、わたしたちはここに、新たな、別種の感動までも味わうことができるのだ。

1999/02/06

征海未亜

いくみ・みあと読むらしい。現在までに単行本は出ていないようだが、『なかよし』に連載中の「スーパードール リカちゃん」がたぶんすぐに単行本化されるだろう。
アニメの方にハマりきっているのは当たり前のことなのでわざわざ言わないが(なにが当たり前だ)、どうも作品としては征海の描くマンガ版の方が出来がいいんじゃないか、という気がしている。構成もそうだが、なにより絵の魅力だ。2年以上前に新人賞を受けている、これほど魅力的な絵を描け、テンポのよい演出で見せられる作家が、タイアップものでようやく本誌初登場・初連載というのは信じられない。アニメ版では非常につまらないキャラクターになってしまっているドールリカの小悪魔ぶりは、見ていてじつに楽しい。
ただひとつ気になるとしたら、ジンクスの存在だ。「アニメのタイアップ企画で描いた作家は、その後『なかよし』と縁が切れる」らしい。例をいくつも挙げられるわけだが、征海にはぜひこれを打ち破るなり、新たな活躍の場を見いだすなりしてほしい。このまま消えたのではもったいなさすぎる。まだ単行本も出ていない連載が終わったあとのことを心配してもしょうがないのだが。

1999/02/07

というわけで連載も無事に終わりました。アニメが終わっていない時点で言うのもなんだが、まず間違いなくこっちの方が面白かったです。まだ読んでないという人はいないでしょうね。単行本1巻はとっくに出ているので、今すぐ本屋に行きましょう。

1999/09/04

アニメと比べたのが悪かった。それがアニメ制作スタッフの責任ではないにせよ。単行本(2巻・完結)は絶賛発売中……なのか? 書店の扱いがあんまりにも冷たいような印象がある。メディアミックスの損なところはこのへんで、元作品がたまたま不本意な仕上がりになって人気が無くなれば(それについては結局のところ自己責任なのだが)、タイアップ作品まで不当な評価を受けるということにもなってしまう。征海にはこうした状況に関わらず、上記のとおり新たな活躍を期待している。

1999/12/17

CLAMP

どうしようかなあ。これだけ固定ファンも熱狂的マニアもいる作家に対して、いまさら偉そうに付け加える資格なんかないんだよなあ。なにしろ、3作(数え方によって4作)しか読んでいないのだ。「魔法騎士レイアース」「同2」「CLOVER」と、「カードキャプターさくら」。講談社系ばっかりだな。
ただ。ただ、どうしてもこれだけは言っておきたい。言っておかねば。言わねばならん。
さくらちゃんは可愛すぎるぞ。
金もないというのにもういい年だというのに自分で描く参考にするわけでもないのに、イラスト集なんぞ買ってしまう自分が情けないというかでもまあいいや。さくらちゃんのためだし。

1999/02/07

雪兎さんがじつは女だった、という目はないかなあ。直感なので読み筋は略。ええと、奈久留と対になるのだ、ということで。とりあえず日付入りでいまのうちに書くだけ書いておく。

1999/04/23

ごめん。やっぱ違うかもしんない。雪兎さんと○○さんの関係がそういうことだとすると、女性ということはありえないよな。(これ、たぶん物語の最後の謎になると思うので、少なくともBSの放送が終わるまでは伏せておきます)。やー。自分はまだまだ、やおいに対する認識が甘かったっす。

1999/09/04

曽祢まさこ

たくさん出ている中で1作しか読んでいない作家を取り上げるのはこのページの趣旨に反する、というか自分の主義に反するのだが、まあ勘弁してもらおう。(他で論じている作家は、けなしているものも含め、特に断りがないかぎりすべての単行本に目を通しているつもりだ)。ホラーやファンタジーのジャンルで、'70年代〜'80年代前半に活躍していたらしいのだが、詳しいことはよくわからない。
というわけで、「不思議の国の千一夜」という長編が彼女の作品群の中でどういう位置を占めているかは不明だが、単独で読んで非常に面白いことだけは間違いない。王子として育てられた女の子が、さまざまな冒険の果てに親友と宝物と美しい妻を手に入れるという、正統派少女マンガファンタジーの物語が、童話のパロディーなどを織り交ぜながら語られてゆくのが第一部まで。ちょっと引っかかるような説明だと思うが、読んでみればわかります。
そして、それまでに立てられたキャラクターたちはどんどん勝手に動いていき、第二部、第三部、膨大な番外編に至るまでを成立させ、じつはこの作品は「セーラームーン」以前ではKCなかよしの最長編記録を誇っていた(全11巻)。現在まででも、単行本の巻数が2桁に達したのはこの両作品だけだと思う。つまりそれだけ当時の読者たちから支持されていたということであり、基本的には物語の面白さとキャラクターの魅力がその根拠となっていたのだろうが、現在大人の目で読み返してみるとこれがまた違った意味で面白い。ミルテ姫ぇ〜。
まあとにかく読んでみてください。と言えるのも、最近になって講談社漫画文庫で再刊されたおかげだ。たとえば同時期に文庫化された「生徒諸君!」あたりと比べると知名度は格段に低いと思うのだが、読んだ者なら判る面白さとそれに見合った支持があればこそ、だろう。

1999/02/07

えぬえけい

KCなかよしから「RsR アールズレボリューション」が発売中。連載中の「B-ウォンテッド」がそろそろ単行本になるようだ。
かなり好きな作家の部類に入るのだが、好きな理由をどう説明していいものかわからない。小細工が主体になるプロットは、それがいくらこの作家本来の資質に合っているとはいえわたしの趣味ではないし、アップ顔よりギャグ顔、というかいっそ落書きに近い部分の絵が魅力的に見えるというのも、本当ならマイナスポイントだ。フリートークの方が面白いというあたりには征海未亜と共通して同人誌の匂いがするのだが、それで評価とか云々の話はおかしいしな。
細かく分析していくとこうして否定的な評価ばかりが現れてしまうが、読んでみるとこれがたしかに面白い。ということは、さまざまなファクターをひとつのエンターテインメントとして統合して読ませるバランス感覚に優れている、ということだろう。これが備わっているかぎり、実はどんな作品でも安心して読める作家であるのだし、考えてみればそのペンネームからしてバランス感覚を標榜しているのなら(単行本にあったペンネームの由来と、生物学や医学や栄養学に関する乏しい知識からの当て推量だが、たぶんそういう意味なのだと思う)、今後も期待し続けていいのだろう。

1999/09/04

岡本慶子

『るんるん』時代からファンだったんですよー。そのうちここで取り上げようと思っているうちに時機を逸してしまいましたが、「コレクター・ユイ」コミック版が出たときにはじっさい驚きました。まあそういうわけで、いまさら紹介の必要はないですね。
正統派少女マンガの流れを汲む可愛い絵柄と、天然ボケを通り過ぎてイッちゃってるヒロインと、あらゆる意味で過剰なコスチュームと、やたらと出てくる女装少年と、男性作家が描いたら許されないだろうというほどきわどいアングルでのアクション。ツボにハマってます。「ユイ」に彼女を起用したのはまったく妥当だったというか、むしろこの作品の発想の元に「夢幻パトローラーYUZU」があるんじゃないのか。「YUZU」は『るんるん』時代の岡本の代表作。未完のまま単行本は絶版になってしまった……悲しい。そりゃ子供には受けなかったかもしれないだろうけどさ。でもこれ、『るんるん』で最長期連載だったんじゃないか? 

ところで、ひとつだけ疑問。『プリンセス』でデビューということは、しばらく秋田書店で描いてたはず。でも秋田の単行本リストに「岡本慶子」という名前はない。ただ、ひとみコミックスで何冊か「岡本ゆり」という名前を見かけた覚えがある。1枚カットだけしか見たことないけど、魅力的な絵柄に共通するものを感じる。『るんるん』の創刊は『ひとみ』休刊直後で、英洋子など何人かの作家がごっそり移籍していたという記憶もある。「YUZU」の単行本で、YUZUの名前が作者の本名に似ている、という記述もある(ゆりが本名とも限らないわけだが)。状況証拠としてはこれだけ揃っているので、岡本ゆりの単行本を手に入れて確認すればたぶん判別はつくのだろうけど、これがめったに見かけない。当時から気になってはいたのだから、手に入れておけばよかったと思っても後の祭り。しかし、状況に恵まれない作家ですねえ……。受ける要素はたくさんあると思うのに。

1999/09/04