その他全般

つらいこと

少女マンガのコミックスばかり10冊も持って専門店ならともかく郊外の普通の書店でレジに並ぶのは、なかなかつらいことである。30代(独身)外見コワモテ風の男性にとっては。
だだだってしゃあないやんっ、さくらちゃんはにゃ〜んなんだからっ。

1999/02/07

便所に入ろうと思ったら、入り口の角に足の小指をぶつけた。これでなにが大変って、痛くて動けないわ、出すものは出したいわ。

1998/11/09

おたく的思考法

たとえば、「魔法騎士レイアース」という作品について、誰かに説明するとする。相手は二十を過ぎていて、アニメやマンガについては基本的にまったく知識のない、いわゆる一般ピープルだ、ということがわかっている。
「ほらあのCLAMPの原作で、あの椎名へきるが声をやってて」。これで相手が理解してくれると、本気で思っているのだろうか。それはたしかにランキングもののTV番組を観ていれば、CLAMPの新刊も椎名の新曲も必ずヒットチャートに入ってはくるのだが、もともと興味がなかったにもかかわらずそれを記憶している人間が、いったいどれだけいることか。逆に、いま「椎名へきる」といわれてピンと来たひとに問いたいが、鈴木あみとかマリスミゼルという名前を聞いて、どのていどピンと来ますか。椎名へきるよりはヒットチャートの上の方に来るアーティストなのだが。
じつをいうと上記のこれは実話なのだが、もちろんその一般ピープルは目を白黒させていた。そのあとわたしが言った「田村直美の『ゆずれない願い』ってあったでしょ。あの歌、このアニメの主題歌だったんですよ」というセリフは、すんなり通じたのだが。ミリオンセラーぐらいを例に出さないと、知識のない人間に話を通じさせるというのは難しい。
それ以前の問題として、最初のせりふを言った彼は、相手に本気で理解させようとして話してはいないのではないか、という疑問すら生じる。おそらく彼がいままでいた環境では、「あの」がすべて通用していたのだろう。おたく同士での会話なら、彼の発言は責められない。だが状況が変われば、説明の方法、説明すべき内容も変わってくる。そういった、おたく以外とのコミュニケーションの経験がないことによる不幸だったのではないかと思う。

1998/11/03

もひとつ実話から。あんまりこういうことやってると、そのうち友達無くすなきっと。
ある宴会で、某マンガ家氏(以下、A氏とする)と某まんぼう(マンガ防衛同盟)関係者(もちろんB氏とする)が同席しているところに居合わせた。A氏は、いわゆる美少女系、えっちマンガをメインの仕事にしている。その二人はたしかあまり共通する趣味もなく、話の接ぎ穂に困ったこともあるのだろうが、A氏がB氏に向かって曰く、「例の法案って、いまどうなってるの?」。それに対するB氏の返答は、「なんとか、衆院法務委員会の方にかけられました。厚生委員会だったらまずかったんだけど」。
このやりとりを聞くともなしに聞いてしまったわけだが、まあ酒の席でのことだし、ご両人はたしか相当回っていてそれを素面のわたしが観察したという状況をこういうところに書くのはいささかアンフェアであって、ほんとに友達無くしかねないのだが、どうにもこの会話が気にかかってしょうがないのだ。
まずA氏。酒の席の話題じゃないだろう、ということは措くとしても、そのときのB氏の返答にいちおう満足していたらしいところをみると、これをご存じなかったらしい。じつはわたしも、まったく別のところでまったく別の筋のそちら関係の友人複数から、よく同じ質問をされ、同じレベルであることを知らされている。一般ピープルならそれでよいが、いちおう飯のタネに関わることでしょう。たとえばインターネット上で情報を集めれば、この程度のことはすぐにわかるはずだ。
国会で法案がなにをどう審議されるか、なんてことは、ふだんの生活にはまったく関わりがないことであり、建前論を別にすれば、そんなもんの基本的な知識なんぞ持っていなくったってかまいはしない。必要になったら調べればいいのだし、詳しそうな人間、この場合はB氏もしくはわたしに尋ねるというのは、その調べるということに関して非常に有効な手段だ。大量のナマの情報を自力でふるい分けるより、人間という有能なフィルターを通した方が効率がいいのは間違いない。しかし一方で、これほど重大な、えっちマンガに関して死活問題になりそうな出来事に対して、いままでなんらの情報収集をしてこなかったというのは、責められてしかるべきではないのだろうか。法案が提出されて、すでに半年にもなるのだ。「俺の知ったことじゃない、規制が始まったらそれはそれでなんとかする」というたくましい態度も人間として正しいのではあるだろうが(皮肉にあらず)、ちょっとでも気になっているのなら、やはり自力で多少は調べるとか、引っかかってくる情報を自分がフィルターになって処理するとか、してほしいと思う。
一方のB氏はどうかというと、この返答もいささか問題がある。A氏、に限らないがいまさらこんな質問をしてきた人間の求める回答は、法案はすでに成立してしまったのか、それともまだなのか、最悪の事態(与党案の成立)あるいはそれに向かう事態は避けられているのか、たぶんそういったところだろう。まずそうした大前提を述べるのが、他人(=理解しあえているとは限らない存在)とのコミュニケーションであるはずだ。このあとB氏は滔々と、法務委員会に持ち込むためにどれだけ苦労したかといった技術論のようなものを続けていて、その苦労に対しては本当に感謝しているのであるが、見ていたところではA氏に通じていたとは思えない。「政治おたく」という言い方が成立するのなら、これもおたく的な視野狭窄現象ではなかったろうか。「レイアース」という単語を聞いただけで椎名へきるの話題をえんえんと始めるのと、仕組みとしてはなんら変わらない。いちおう市民運動のようなものをやっているのだから、「市民」に対して理解と協力を求める、相手の求めるレベルに合わせていくというのも大切なことじゃないのかね。

なお、この件に関するおたく側の受け止めとして最大の問題は、すでに与党案で可決されている、あるいは成立するのは時間の問題であり既定の事実だ、と信じ込んでいる例が多いらしいということだ。当初、センセーショナルな報道がされた影響もあるのかもしれないが、まだ審議は始まったばかりであり、廃案になる、あるいはすこしでもましな法律になる可能性は充分に残っている。このことは認識しておいてほしい。これを読んでいる、あなたのことですよ。
ここで、特にA氏に近い立場に対して「ではいま、ぼくたちはなにをすればいいのか、いっしょに考えてみよう」とやらかすことも可能なのだが、それはあいにくわたしの仕事ではない。考えるには考えてみたのだが、結果としてほとんどなにも行動していないので、それを言える立場ではないのだ。とりあえずしたことといえば、自分のWebサイトに関連リンクを用意し(詳しいことはそっちを参照してくれと言って逃げ)、知っている範囲での情報を目立つ場所に置いておき、まんぼうの機関誌にやくたいもないアジテーション(として成立しているかどうか疑問だな、あれは)を載せてもらったというぐらいだ。
ただ、「自分の考えを他人に理解してもらう」ということに関しては、多少のスキルを積んできたつもりである。少なくとも、上で述べてきたようなことはふだん考えている。いま現在、もっとも必要とされ、かつ必要性を自覚されていないのが、このコミュニケーション能力に関する件であるということも、認識しているつもりだ。

要はコミュニケーション能力であり、相手に自分の考えを伝達する能力であり、相手がどう受け止めてくれているかを考える想像力なのだ。
おたくが世間一般から嫌われているたぶん最大の理由は、「普通の話題についてこない、またはついてこられない」「そのくせ、いったん自分の興味あるジャンルになるとぺらぺらと話しはじめる」というあたりだろう。ここではずっと後者の話をしてきた。
この「CoCoNuts-Club」の目次を眺めていて、ずいぶん偏っているなあとお思いになったことだろう。たとえば食べものの話はあれほど熱心なのに、ファッションのフの字もない。表面の現象からは、たまたまそういう記述をしていない、という解釈もできるが、じつはもっと単純なことで、書いている本人がそっち方面にまるっきり興味を持っていないのだ。たとえばジーンズとコール天の区別はつくが、チノパンというのが具体的にどんなパンツのことなのか(ズボンのパンツと下着のパンツの区別ぐらいはつく)、まるでわからない。たぶんカジュアルなものだろうという想像をしているだけである。いまどきコール天はないな。最近はなにか別の呼び方をするはずだが、それも知らない。女性のファッションになると、これはもうさっぱりわからない。ショートレイヤーって、具体的にどんな髪型なんだ。たぶん短いんだろうとは思うが。こういうのは単に知識が古いだけという問題なのかもしれないが、新しい知識を学ばなくても平気でいられるというのは、基本的に興味がないからだ。ある種のこだわりはあるのだが。服なんか安ければいい、という。
こういう行動は、典型的な「おたく的思考法」のひとつである。自分が持っているものだから、実感としてつかめるし、批評することもできるのだ。ファッションを例に挙げたが、《常に安物のファッションでまとめている》という戯画的に描かれるおたく像とは、直接の関わりはない。たまたまわたしのばあいにはこうした形で現れている、というだけで、ファッションおたくというものもとうぜん存在する。ある専門分野に詳しい、というだけでおたくと定義されるわけではない。興味の対象が他に拡がっていかないところが問題なのだ。ここで、「音楽」「食べもの」「マンガ」「アニメ」「小説・書籍」「コンピュータ」と興味分野が拡がっており、その中でモーツァルトからRooky、吉田健一からゲッツ板谷まで興味の対象となっていたとしても、それはあまり本質的な問題ではない。たまたま複数のジャンルでおたく的なのであるか、ある種の、音楽とは直接関係ないおたく的興味からモーツァルトを楽しむという行動をとっているだけだろう。
そして、それらの興味ジャンルについては話しはじめると止まらない、という現象も明らかに存在する。これは変形した自己顕示欲で、自意識過剰、他人からどう見られているかが気になってしょうがないという心理から発生している。興味ある外部の事象に「だけ」心を奪われているから、そうしたものを定義してみせることで自分自身の定義も完了したような気分になり、その定義を他人に提示したくてしょうがなくなる。プロフィールに詳細な使用機種のリストを挙げるのも、そうした自己顕示欲の一環かもしれない。
こうしてみると、WWWはじつにおたく向けのメディアなのだ。一般にいう、背中を丸めて暗い部屋でパソコンにしがみついているというイメージだけではない。もっと本質的な部分で。
あまり周囲のことばかり書いていると友人を無くす、という懸念から、最後は自分を例にとって分析してみたが、自分のことになったとたんに客観的な分析がどっかにいってしまって自己顕示に陥る。これもまた、典型的なおたく的思考法だ。

1998/11/29

こうなりゃついでだ。もいっこ実話。先述とは別の、やはり一般ピーブルと話していたとき、「あんたたち世間一般のことなんかなにも知識ないんでしょう」と決めつけられたことがあった。まあそこに至る状況もいろいろあったので、先方にしてみれば当然の認識だったかもしれない。
ちょうど、世間を騒がせた保険金詐欺事件の容疑者が逮捕された直後だった。「例の事件のことは知っているか。××が逮捕されたことは」と問われたので、「保険金詐欺と疑われる事件があって、容疑者が逮捕されたのは知っている。それ以上のことは特に知らない」と答えたのだが、彼女はいささか不満だったらしい。自分の決めつけが成功も失敗もしなかったためだろう。
わたしはクォリティーペーパー(高級紙と訳すのはたぶん間違いだろう。日本でいえばスポーツ紙や夕刊紙に対する一般紙が相当するのだと思いこう言っている)しか読んでいないし、テレビのいわゆるワイドショー番組は絶対に見ないことにしているので、その容疑者がどんな生活をしていたのかといった知識は原則として持っていない。じつはワイドショーの話題を一週間分まとめてダイジェストしてくれるニュースショーがあってそれは見ているので、まったく知識がないというとウソになるのだが、しかしそうした知識を持っている方が、どうかしているのではないかと思う。なんではるか彼方に住んでいる赤の他人の家の資産状況や夜食の内容まで知っていなくちゃならないわけなのさ。詐欺事件の容疑者がどんな事実をもって疑われているかという知識ならともかく、逮捕されるまでは容疑者でもなんでもないでしょう。ついでに言うと、判決が確定するまで容疑者は犯人でもない。松本サリン事件の教訓を世間一般はつねに思い出すべきである。
「おたく的思考法」の欠点を挙げてきたが、おたくに対比されるものが「世間一般」なのだとしたら、「世間一般的思考法」もじつにくだらない。そういうものに毒されていないだけ、おたくはましなのだという言い方はできるが、ふつうに新聞に載っている事件のことも知らないおたくが存在するのはたしかなので、そういうのは批判されてもいい。

1998/12/04

ビョーキ

どうやらこれを書いている現在はひどい躁状態のようで、よくこんなにくだらないことばかりだらだら連ねられるものだと自分でも呆れているがどうも止まらない。いま読み返してみても、なんでスパゲッティーの作り方に「ロミオとジュリエット」が出てくるのか疑問に思うぐらいなのだが、そのうち読み返すと恥ずかしくて穴があったら叫びたいぐらいのことになるんだろうなあ。
ここまでひどい躁は久しぶりなので、これがどのぐらい続くのかよくわからない。ピークは一週間ぐらいで、そのあと数ヶ月は鬱状態が続いたような記憶もあるのだが、たとえばこのWebサイトを開いてからいままでずっと躁だということも言える。死にたくなるほどの鬱ってここんとこなかったしな。小さな波はともかくとするとそれぞれ一年ぐらい続くものなのかもしれないが、それにしてもこのピークはなんなんだろうなあ。

1998/11/29

年末年始と(いろんな意味で)無理をしたのがたたったのか、正月早々40度の熱を出して寝込んでいました。なかなか面白いもんですね、あれは。体温計をセットしてしばらくぼんやりして、そろそろ5分ぐらい経ったかなあと時計を見てみるとまだ20秒しか経ってなかったり。ふだんなら5分ぐらいぼんやりしているのは、なんでもないことなんですが。
ビョーキならともかくこういう病気の話は洒落にならなくていけないんで、おかげでこのWebの更新もすっかり滞ってしまいましたが、いちおう熱が下がったあとも、なんとなく気力がなくてねえ。しなきゃいけないことがたくさんあるのに、する気が起きない。おや。これって、鬱状態に似ていますね。すると、いよいよ落ち込みはじめているのかな。

1999/01/11

今回はけっこういろいろ更新していますが、それ以前のていたらくといったら。主観的には、そんなに落ち込んでいたわけでもないのだが。

1999/03/08

ここんとこ、喉の奥にちょっとした違和感がある。ものを飲み込むとき引っかかるとか煙草がしみるとかそういうわけではないのだが、なにもせずにいると喉仏の上あたりになにかがごろごろしているのを感じる。ものを食べているときなどはむしろ楽になっているようだ。
原因は、自分としてはわりとはっきりしている。たまに友人と会ったり、電話したりすると、そのあとしばらくは楽になるからだ。基本的に家に閉じこもりっきりで、メールとかですべて済ませてしまう、誰にも会わない生活だからなあ。

1999/03/15

クスリ

人間の体はよくできていて、腹が減ればなにか食べたくなるし、のどが渇けば水を飲みたくなる。あたりまえのことだが、あたりまえと思ってはいけない。腹が減るというのは血中糖分値が低くなるということで、そういうときに砂糖を摂ると、とたんに空腹感が癒される。同じように、ビタミンCが不足すればビタミンCが欲しくなるし、ビタミンAが不足すると、レバニラ炒めか鰻丼が食べたくなる。心当たりをお持ちの方が多いのではないだろうか。安い食いものの代表と高い食いものの代表が同時に欲しくなるというのは、それなりの理由があることだ。そういうときにレバニラを食べてからふと気がつくと鰻など欲しくなくなっているので、合理的な理由を考えて行動するのは経済である。もちろん純粋に鰻の味が懐かしくなって食べたくなる場合もあるので、そういうときは質屋に寄ってからでも鰻を食べに行くと、これは精神の健康によい。ああちくしょう、こんなん書いてたら食べたくなってきたじゃないか。

薬にも似たようなところがあって、身体がアスピリンの味を覚えてしまうと、熱が出たとたんにアスピリンが欲しくて欲しくてどうしようもなくなる。それを飲めば楽になると身体が覚えているのが、つまり「味を覚える」ということだ。これに依存するようになるのは、心理的な習慣性ということである。酒やタバコや、甘いものやギャンブルや衝動買いに強力な習慣性があるのとほぼ同じことだ。
西洋医学の薬には、必ず副作用がある。たしかそうだと聞いた。そのなかでもアスピリンというのはアスピリン・ショックを除けば効き目のわりにかなり安全な部類の薬で、だから普及しているのだしそのへんの薬屋で買える。ああいうものはいいかげんコンビニでも売るようにしてもらえないだろうか。夜中にいきなり欲しくなるものだろう、あれは。どこの街の薬屋も必ず24時間営業になってくれるなら、それはそれでもいい。そういえば、コンビニエンスストアが日本に登場した当初はドラッグストアと呼ばれていた。アメリカの薬屋は深夜営業をしているのがふつうで、そのついでにあると便利なものをいろいろ置くようになったのが起源らしい。
効き目が強いのに副作用がごく少ない薬の例として、モルヒネがある。鎮痛剤としては完璧なのに、習慣性以外の副作用がないらしい。これは誰でもモルヒネを使えるようにしろ、と主張しているわけではない。充分な知識を持って扱うなら良い薬だ、と言っている。仮に肉体的な習慣性がエスカレートしなくても、ギャンブルや衝動買いがそうであるように、心理的な習慣性はエスカレートしていくだろうからだ。
効き目も副作用も強いのに、なぜか誰でも手に入れられる薬がステロイド剤である。あれはたしかに良く効く。そのかわり、副作用もとんでもなく強い。わたしはかつて、ちょっとした湿疹だか汗疹だかにかかったとき、なんの知識もなく薬局で「かゆみ止めでよく効くやつを」と注文したらステロイド軟膏を売りつけられたことがある。たしかに効くので常用し、それを切らすたびに同じ製品を指名買いなどしていたら、だんだん肌が紫色に腫れてきた。医者の卵だった当時の友人に(元気にやっているだろうか)相談して軟膏のパッケージを見せると、彼はびっくりして「すぐに止めろ」と言う。それで止めたら、こんどは塗っていたあたりがケロイド状の湿疹になってこれに何年も苦しめられた。軟膏を使っていたのはもう7〜8年前の半年間ぐらいだったのだが、まだかすかに痕が残っている。
もっともこういう薬もモルヒネと同じで、医師の正しい指導の元に使うのならあまり問題はないらしい。素人判断でいつまでも大量に塗布していたからそんなことになったのである。

「漢方に副作用はない」。これは正しい。だが、「これは漢方薬だから副作用の心配はしなくていい」というのは大間違いである。べつに具体的な知識を持っているわけではないのだがアウトラインを述べると、漢方医学では人間の体質を陰陽だか虚実だかに分類して、それぞれの体質に合った薬を処方する。体質に合わなければ余計な作用が生じて、これを副作用と称する。このあたり、西洋医学とは発想が根本的に違う。これだけのことを知っていればべつに不思議でもない話だが、どうも西洋医学で育った人間には漢方医学はなにやら迷信とか魔法の一種だと思われていて、漢方薬はどんな使い方をしても副作用はないなどと信じられているらしい。漢方の基本的な考え方は、「この体質でこの症状が出るのは熱がこもるからなので、熱を排出する(「下げる」ではない)薬を処方しましょう」といった具合で、同じような症状でも体質が違えば原因も違うと考える。ここで熱を排出しすぎる体質の人間に同じ薬を処方したら、ひどいことになるのは明白だ。また解剖学に基づかずに、たとえば男性の精液は腎臓で作られるんじゃないかということになっていて、放出しすぎた症状を腎虚と名付けている。実際にどの臓器でなにが起きているのかは、手術をするのでもないかぎりじつは関係なく、名前だけの問題だからこれでいいのだ。こうした思想体系を踏まえていれば、その範囲内で非常に合理的な思考に基づいた処方をするものである。それを理解せずに素人考えで、「おれが飲んで効いたからおまえも飲め」では事故が起きて当たり前だ。いつだったか、肝臓病の薬として病院で使っていた漢方薬の副作用で、多数の死者が出たというので問題になっていたが、西洋医学しか学んでいない医師や薬剤師は漢方医学に関しては素人だろう。西洋薬と同じ使い方が漢方薬に通用すると思っているのなら素人以下だ。そのときの報道も、どうやらそのへんを理解していないらしいおかしなものだったぞ。
なにをくどくどと言っているのかというと、そのへんの薬店で風邪に効くと称して漢方薬を売っているでしょう。それも生のやつじゃなくて、大手製薬会社が抽出して乾燥して顆粒にして大量生産したようなやつを。あれもやっぱりなんの説明もなく、しかも「漢方だから安心」とか謳って売られているが、いいのかほんとうにそれで。漢方薬を飲むことと漢方で治療することはぜんぜん違うぞ。さっきも言ったように具体的な知識があるわけじゃないんで、どんな体質でもちゃんと効くような漢方薬を作れるものなのかどうかは知らないが、どうもあやしい。ステロイド軟膏をなんの説明もなく売るよりは悪質ではないにしても、いいかげんなんとかした方がいいんじゃないだろうか。

1998/12/06

気になる表現

こういうのを書くようになると大人になったというか爺臭くなったというか、そういうことなんだろうが、やはりどうしても書いておきたい。ただし、「〜みたいなぁ」とか「チョー」とか、そういったありきたりのものはいちいち取り上げない。これが最低限のプライドである。基本的に書き言葉が対象である、としておこう。

温度差

新聞の紙面で最近よく見かける。《この問題への対応では、アメリカと中国の間にかなりの温度差がある》といったたぐいだ。言葉として間違っているとかそういうことではないのだが、こうも頻発されるとうんざりしてくる。A新聞(イニシャル)の場合、一日の紙面に二回か三回は現れるんじゃないだろうか。ワシントンと北京じゃ気候条件が違うんだから温度差があるのは当たり前だ、とか、いらんツッコミをしたくなるぞ。それともこれは、A新聞だけの特徴というか特有の文体なんだろうか。洒落た言い回しのつもりだったのかもしれないが、これだけ使われればあっというまに手垢がつくのは当然である。「手垢がついてしまった元洒落た言い回し」ほど、鼻につくものはない。

1998/11/29

これを書いたあとしばらくしたら、A新聞でもあまり目立たなくなりましたね。さすがに社内でも意見が出たんだろう。まさか、このページを関係者が読んでいるわけではあるまいが。

1999/02/14

〜したいと思います

これは話し言葉でとくに目立つのだが、たとえばパーティーの司会が、「では会長にご挨拶をお願いしたいと思います」などと使う。お願いするんならさっさとお願いしろよ。思うのはあんたの勝手であって、聴衆にはなんの関係もない。思ったあと、ちゃんと「お願い」という行動に出なかったら、なんの意味もないだろうが。なのに、こう言っただけでお願いしてしまったような気分になっているらしいのだ。婉曲表現で丁寧にしたつもりなんだろうが、こっちはイライラしてしょうがないぞ。最近はテレビの司会者が「次のコーナーを始めたいと思います」などと言っているのもよく聞く。そんなん言われたって、こっちは番組の進行に介入できないんだから無意味でしょう。ひどいのになると「その件については考えたいと思います」だ。「思いたいと思います」まで、あと一歩だな。

1998/11/29

追記:いよいよプロサッカーもキャンプシーズンになった。(プロ野球? なにそれ。まだそんなものやってたの?)。いろんな番組で期待される選手へのインタビューをやっているのだが、「今年の抱負は」という質問に対して必ず出てくるのが「がんばりたいと思います」。……思うだけじゃなく、がんばってくれよ。自分のことだろ。「得点王を獲りたいと思います」なら正しいけど、「得点王を目指したいと思います」はなかろう。まあ、プロスポーツ選手は言葉の専門家じゃないから、あんまり言うのもどうかと思いますが(この用法は正しい)。
これは言葉のこととは関係ないんだけど、野球選手へのインタビューを見ていると(上と矛盾しているが気にしてはいけない)、よく「今年の目標は打率3割です」などと言っている。バント要員でないかぎり、打席に入った以上はヒットを狙うのが投手も含めてプロ選手の義務であって、それなら「目標の」打率は10割でなきゃいけないはずなんだが。なんだろう、シーズン終盤に自分が3割に達していたら優勝争いの最中でも以降の打席は手を抜く、という意味なのかな。

1999/02/14

かも知れない

これも間違っているとは言い切れない表現で、三十年前ならあたりまえに使われていた。ただし、そのころはたとえば「但し」「例えば」という表現もあたりまえであって、そういった用字法と組み合わせて文体を統一してあるならいいのだが、単独で「かも知れない」が現れると非常に気持ちが悪い。これは、わたしの個人的な感覚かもしれないが。日本語入力システムの中には、たぶん手紙文を前提にして、こうした表現をやたらと漢字にしたがるものがある。実見した中で、「よろしくおねがいいたします」の第一候補が「宜しく御願い致します」になる、なんてのがあった。ふだん書くことに慣れていない人がなんの意識もなくそれを使っていると、「但し」「例えば」「かも知れない」のオンパレードで手紙以外の文章を仕上げてしまうことになるのだが、おかしいと思わないものなのかなあ。わたしの文章にひらがなが多いのは、さいしょに使っていた日本語入力システムがそれだったために、反発したという要素も多少はある。

1998/11/29

話し

名詞としてなら「彼の話を聞く」、動詞としてなら「そう彼は話し、こちらを振り向いた」。送りがなの用字法とかそういうことではなく、「彼の話しを聞く」という文字の並びを見たとき、常識というか感覚として、おかしいとは思わないのだろうか。完全な話し言葉であるものを文章に写している場合、《はなし(を)した》も《はなした》も同じく「話した」になってしまうので、そのあたりから混同が始まるのかもしれない。あるいは、いいかげんな日本語入力システムのいいかげんな文法解釈がこういう代物を垂れ流しているという可能性もある。いやしかし、熟語変換の時代ならともかくここ数年のもので、動詞形のあとに「を」が続くと解釈する日本語入力システムというのも想像を絶するしろものだ。あちこちで、最近は雑誌などの印刷物でさえこの間違いを見かけるので、もしかしたらすでに根深いところに浸透してしまっているのかもしれない。恐ろしい話である。
いま書いていて思ったのだが、「話し言葉」といった表現も混同の一因になっているのだろうか。しかし少し考えればわかることなのだが、「話し」は「口に出してしゃべる」というニュアンスがあり、「話」は『日本むかし話』のような場合にも使われる、やや抽象的な「はなし」である。「話し言葉」は明らかに前者の意味だけを指しており、「話している言葉」の省略形だろう。だいいち、こうした例外的な複合語が許容されているからといって、「話しを聞く」をおかしいと思えない方がおかしいのではないか。

1998/11/29

なんだか最近は、「話」ときっちり区切ったものよりも「話し」の方をよく見かけるような気さえする。気にしすぎなのかもしれないし、ら抜き言葉のように定着していくものなのかもしれないが、それにしたっておかしいよ、絶対。

1999/03/15

月刊アスキーでの連載で、島田雅彦まで「話し」って表記を使っているのを発見した。どうなっているんだ。もしかして、本当におれの方が間違っているのか。いやそんなはずは。いやしかし。

1999/07/05

光り

「話し」のことを書いていて思い出したのだが、これもたまに見かける。あるテレビ番組の主題歌にこういう歌詞があって、毎週それが字幕つきで流れていたものだから、ことさら気になるのかもしれない。「話し」にはまだ上記のように考える余地はあるが、「光りを信じたい」って表現はないだろう、なにをどう考えても。

1998/11/29

引用符つきの名前

これはまだ例外であると信じたいのだが、たとえばnutsではなく、なっつという名前が存在したばあいに、「『なっつ』さんのエッセイはつまらないなあ」などと書く人がいる。引用符に引用符を重ねているのでよくわからないかもしれないが、引用としてではなく呼びかけや指示代名詞のような使い方をする場合でも、とにかく人名をほとんど引用符、「」や""で囲んでしまうのだ。もっとも、どうやら漢字の名前はそのまま、ひらがなの名前は引用符付き、カタカナやアルファベットの場合はそのときの気分次第、というおおまかな法則はあるらしい。その気持ちは判らないでもない。たとえばなっつというのをこうしてなんの断りもなく引用すると、地の文章とくっついて非常に読みづらくなる場合があるからだ。しかしそれにしても、気になるんだよなあ。こういう表現を見ていると、たとえ自分の名前のことではなくても、なにかひどくバカにされているような気分になってくる。ひらがな名前を文中に引用してかつ読みやすくする場合は、できるだけ行頭に持ってくるとか、直前を読点で区切るとか、そうした表現上のテクニックを必要とする。自分がそれに苦しめられた経験があるので、よけい気になるのだ。

1998/11/29

「以外」と「意外」/「特徴」と「特長」/「対象」「対照」「対称」

言うまでもなく同音異義語の間違いだが、この三種類は特に多いように思う。「特徴」と「特長」はまだ判らないでもないが、なまじ意味が近いので「容疑者の特長は安物のサングラスに見苦しい髭……」といった表現が発生しやすく、ここで単語の意味を考えはじめるとひどい矛盾に悩まされることになる。「対象」「対照」「対称」も同じようなものだが、三つの単語が混同されるとさらにわけのわからないことになってしまう。「Aでは間違いだからBだろう」という判断が瞬時にできなくなるのだ。
「以外」と「意外」の間違いは、意外に多い。平然と商業出版物に出没していたりする。へたをすると、「以外に多い」を見かけることが多すぎて、どっちが正しいのか判らなくなってくるしまつだ。ワープロというものが、厳密にはカナ漢字変換が登場したときからこうした間違いが増えてきたのは確かだし、その範囲だけならさほど目くじらを立てる必要もないのだろうが、なにかの手書きによる文章でこの間違いを発見したときには驚いた。その筆者は、間違いがあまりにも多く流布されてしまったため、意味を深く考えることもなく多数派を受け容れてしまったのかもしれない。いったいどうしたものか。

1998/11/29

阿佐田哲也「麻雀放浪記」を読み返していたら、あきらかに「特徴」とすべきところを「特長」と表記している例が多い。というより、気づいた範囲では「特徴」という単語がまったく現れなかったので、すこし考え込んでしまった(角川文庫版による)。ふと思ったのだが、もしかしたら「徴」という文字は当用漢字に含まれていなかったかもしれない。かつては出版物全般に対してこの用字制限があったために、同音で似たような意味の漢字を借用してくるというふざけた習慣が定着していて、「特徴」という言葉がそのために消えてしまっていた時期があったのだろうか。
と書いてから、当用漢字時代の辞書が手元にあることに気づいたので調べてみた。「徴」は当用漢字であり、上の推論は成立しない。ええと、阿佐田哲也は麻雀の神様にしてエンターテインメントの王者ではあったかもしれないが、少なくとも文章の神様ではなく、小説家でもこういう間違いはするのだ、ということである。

1999/03/15

障害者

五体不満足であったり、あるいは精神のあり方がたまたま社会に通用しない人びとのことを一括して、「心身障碍者」と称する。区別と差別の区別がつかないひとでも、なんらかの呼び方が必要であることは認めざるを得まい。……この件、触れだすとキリがないので、遠回しな言い方はここまでにしておく。とにかく、障碍しょうがいという言葉が存在する。ところが「碍」が当用漢字に含まれていなかったため、「害」という別の意味の文字が転用されるようになり、それが定着してしまった。「国際聯合」(国際連合)、「編輯」(編集)など、この手の言葉は枚挙にいとまがない。すでに当用漢字による制限は撤廃され、必要ならば常用漢字以外を使ってもよいことになっているのだが、いちど失われた正しい表記はなかなか復活しない。
旧字体の使用も似たような問題に見えるかもしれないが、たとえば「頸」も「頚」もまったく同じ文字で、書き方あるいは表示イメージが違うだけであるから、これは本質的な問題ではない。だが、別の文字には別の意味があり、いくら意味が近くても音が同じでも、「特徴」と「特長」の区別をしないていどには無神経な話なのではないか。
とはいえ、わたしも戦後教育を受けて当用漢字しか習わなかった世代なので、このへんの使い分けが厳密にできているわけではない。たぶん、こうした視点からはおかしな表記をずいぶんしてしまっていることだろうが、気づいた範囲だけでも直していくつもりだ。とりあえず、「害」という文字で一括されることを不快だと思うひとがいる以上、「障碍者」という言葉は覚えておいた方がいい。「障害者」と書くことに、他人を傷つけてまでこだわる必要があるのなら別だが。

1999/03/15

エンターテイメント

entertainment 【名詞】もてなし、歓待、娯楽、催し

entertainから派生した単語であり、なにをどう考えても発音のカタカナ表記は「エンターテイメント」である。もっともわたしも、ふと気になって辞書で調べるまでは同じ間違いをしていたので、こういうのはお互いに気をつけましょう。「シュミレーション(もちろん正しくはシミュレーション)」という表記を笑う人間に限ってこういう間違いをしているような気がするぞ。

1999/03/15
1999/03/16追加

「書き言葉」「話し言葉」と「文語」「口語」

以前、誤用の例をいくつか見かけたので、いちおう述べておく。いまわたしが書いている(あなたが読んでいる)この文章は、「口語による書き言葉」である。この文章を朗読することはできるが、それはふだんわたしが喋っている「話し言葉」とはまったく違う。

だぁらさ、この文章朗読すんのはできっけど、それって、ふだんおれの言ってっ言葉とぜんぜん違うわけ。

かなり埼玉弁が混じっているが、ふだんのわたしの喋り方はこんな感じである。この調子で文章を書くことはないだろう。小説の会話などでも、とくに意図がないかぎり、もうすこし判りやすい表記をするものだ。
にもかかわらず、この文章は「口語体」で記述されている。これに対応する概念が「文語体」であって、たとえばこのような文章だ。

当文章の朗読は可能なれども其は小生の通常用うる言語と大いに相違するものなり。

歴史上の資料あるいはその流れを汲む文書でも読んでいるのでないかぎり、まずお目にかかれない文体である。これを「文語」というのであって、ふつうに読める文章は、「話し言葉」とはかけ離れていようと、みな「口語」である。
北杜夫の「白きたおやかな峰」という小説の題名に対して、こういうことにうるさい三島由紀夫が「口語と文語の区別ができていない。『白くたおやかな峰』か『白きたおやかなる峰』か、どちらかにすべきだ」という意味の批判をした、というエピソードを読んだことがある。文語と口語の区別、ニュアンスとしておわかりだろうか。
わたしは特に意図しないかぎり文語体の文章を書くことはないし、そもそも(上記の例のとおり)まともに書けるわけがないので、単に「話し言葉とかけはなれた書き言葉だ」という意味で「文語体で書いている」と言われると、非常に心外に思う。というだけの話なんですけどね。

1999/03/15

おぜうさん

お嬢さんおじょうさんを旧かなで書いたつもりなのだろうが、こういう表記を見たことがある。旧かな遣いにはきちんとしたルールがあって、「お嬢さん」は「おぢゃうさん」と書く。国語辞典によってはちゃんと載っているのだから、調べてから書いてほしいものだ。
ちなみに、「ドジョウ」の旧かな表記も「どぢゃう」である。商品名として縁起を担ぐために三文字の「どぜう」と書いてむりやり使っている店が有名なので、これが正しいと信じ込んでいるひとが多いようだが。

1999/03/15

散文

小説と詩の関係を論じていて「散文」という言葉を使ったら、「散漫な文章で書かれた小説は云々」と返されてびっくりしたことがある。これは「韻文」すなわち韻を踏んだり七五調にまとめたりした文章に対して、普通の文章を指す言葉である。ええとつまり、辞書を調べましょうね、という話なのだが。

1999/03/15

〜が。

さんざっぱら他人様の文章やらにケチをつけてきたので、ここらで自戒すべきところなのだが。どうもこの、文末を「〜なのだが。」「〜ですが。」で言いさしにしてしまう癖が自分にはあるようですが。気楽なメールなんかだと、うっかりしてると文末がぜんぶこれになってたりするんだが。いかんなあ、とは思っているのだが。どうやら話をあいまいにしてしまいたいときに使いたくなるようなんだが。しかし、これじゃちっとも自戒したことになっていませんが。

1999/03/15

デヴュー

こんな言葉はどこにもない。「デビュー」ってのは日本語になっているが、もとの綴りはいくら調べても"debut"なんだけどなあ。
「V」音を日本語表記するときに「バビブベボ」になってしまっていたのを、最近になってあらためて正確に表記するようになったのはまあいい傾向で、もっとも「カーヴ」という表記にはちょっとまだ抵抗があるのだがこれは"curve"だからしょうがない。でも、「B」か「V」か原綴はちゃんと調べておかなきゃ、かえって恥ずかしくないか。ぼくは「ヴ」の発音がわかるんですよー、とカッコつけたいつもりなんだろうに、じつはわかっていないことを露呈してるんだから。

1999/04/23

ベット

betちゅうたら賭け金のことでんがな。寝るのはベッド(bed)。このレベルの間違いなんかいくらでもあるんだけど、ちょっと多すぎるように思う。

1999/05/07

やむおえない

文語体がそのまま常套句化してしまうと語義が不明になってくる例だとは思うのだが、どうも気になる。「止むやむ」は「止める」の未然形を名詞化したもの、「得ない」は「するしかない、しょうがない」といった意味。で、「を」は名詞化した「止む」の目的格活用語尾(学校文法では目的格の助詞)である。などと厳密かどうかわからない文法的説明をするより、「止むを得ない」と考えればだいたい意味が判るでしょう。
「を(wo)」と「お(o)」は現代でも発音上の区別はあると思うのだが、そのへんどんなもんでしょうか。

1999/08/30

タバコ喫みはみんな、タバコを嫌いな人間がいることぐらい理解している。どう対処するかは別として。
だが犬好きの中に、犬嫌いの人間がいることを理解している者はどのぐらいいるのだろう。

わたしは犬が嫌いだ。世の中で三番目ぐらいに嫌いなものの中に入る。二番目は酒。
嫌いであるという理屈を並べようと思えば並べられるのだがそれはみな屁理屈で、ようするに理屈抜きで嫌いなのであるから、これを読んでいる犬好きのひとはその点に関して文句を言ってはいけない。高いところが嫌い(四番目)とか開け放ったままの扉が嫌い(五番目)といった現象と、わたしにとってはまったく同じことなのだから。猫もどっちかといえば嫌いなのだが、見るだけで嫌というほどではない。また、フィクションの中に登場する犬にはこれほどの嫌悪感を覚えるわけではない。
とにかく、現物を見るだけで目を背けたくなるし、近づくことも避けたいし、触れるなんてとんでもないと思うぐらい嫌いな存在なのであり、そう思っている人間が少なくともここに一人はいる。たぶん世の中にはけっこうたくさんいる。しかも悪いことに相手は生きて動く存在であって、おまけに人間より(少なくともわたしより)走るのが速く、放っておいたらいつ駆け寄ってきてがぶりとやられるか、わかったものではない。綱や鎖に繋いで飼うのが常識であり道徳でありたしか法にも定められているのは、まったく不幸中の幸いであって、もっともわたしのような人間が相当数存在しているがためにそういう定めがあるのだろうということも容易に想像できる。そのぐらい、これは重要なことなのだ。
にも関わらず、にも関わらずである。食料品店に犬を抱いて入るやつ、他人が通る軒先や路傍にやたら長い綱で犬を繋ぐやつなどが後を絶たない。たとえば、人が通る道の真ん中にわざわざウンコ(犬のでもヒトのでも)を放置しておいて「嫌ならよけて通ればいいでしょう」と言い放つ輩がいたら常識を疑われると思うが、それと似たような感覚ではないだろうか。ウンコ好きより犬好きの方がやや数が多く、ウンコ嫌いな人間より犬嫌いな人間の方がほんのちょっと少ないだけである。
食料品店といえばスーパーなどで、ドッグフードの類を人間様の食料品の隣に並べて売っているのも、いささか常識を疑う。わたしはあれを、どちらかといえば汚いもの、汚さを連想するものとして認識しているのだが、違うだろうか。仮に、ゴキブリ用の殺虫剤を人間の食べものと同じ棚に並べて売っている店があったら、あなたはどう思われるだろう。少なくとも、人間様の食べものと同等に扱うべき代物ではないだろう。さらに最低限、缶詰どうしを並べておくのだけはやめてくれ。殺虫剤とはいわないまでも、ゴミ袋と同じ棚に陳列しておいたって問題はないだろうが。
関連して、ドッグフードのCMもなんとかしてほしい。そもそもどのメーカーのCFもひどくセンスに欠けるのが問題だが(なにが「クイズドッグでドン」だ。あのメーカーは特にひどいぞ)、まあこれは犬を飼う人間のレベルに合わせたものだとして、こっちが飯を食いながらテレビを見ているといきなり犬の顔のどアップが映ったり(人間の目玉のどアップというのもあったがあれもどうかと思う)、犬がくちゃくちゃ音を立てながら半生タイプだかなんだかしらんが残飯としか思えない代物を食らっている映像を見せられたのではかなわない。裏の家の親爺が時を選ばずわざとやっているとしか思えない大きな音で痰を吐くのに匹敵するぐらいの嫌悪感を覚える。仮に万が一わたしが犬を飼っていたとしても、あんなCMを流すメーカーの製品なんぞ不買運動を起こすだろう。それができないのは残念である。
あげくには、犬を放し飼いにして平然としている輩までいるのだ。「繋いだままでは犬が可哀想だから」「うちの子は賢いから噛んだりしません」そういう問題じゃないんだよっ。その犬が人を噛む可能性とか確率ということを言い出せばそれは極端に低いのかもしれないが(わたしにはとてもそうは感じられない――考えられないではなく――のだが)ゼロではないし、それ以前に、公園で犬を放したそのすぐそばに犬恐怖症の人間がいる確率は飼い主が想像しているよりはるかに高いのだ。椎名誠がエッセイでやたらそういうことを書いていてそれは放し飼いをする側からなのだが、その行為に対して当然の注意をした人物を小市民的だと怒ったりする。どっちに落ち度があるのかまずよく考えてから発言してほしい。椎名は同じエッセイで列車の中で喫煙する者にも怒ったりするのだが、冒頭にも書いたようにこれは同じレベルで立場がまったく逆になった問題なのだし、喫煙席で喫煙することに文句をつけられるいわれは本当はないはずなのにタバコ喫みはみんな耐えているのに対して、公園の入り口には「犬を放すな」とちゃんと書いてあるのだ。これは、禁煙席で喫煙しているのと同じことではないのか。どうしても放し飼いにしたいなら、誰もいないシベリアの大平原にでも行きなさい。

というわけで、わたしが世の中で一番目に嫌いなのは、「犬嫌いの者がいる」という程度の想像力すらない人間なのである。

1999/04/29

数行知識

以前やっていた「一行知識」と対をなすものです。そうでもないかな。
世の中には、理解してしまえば当たり前のものとしてできるのに、ちょっとしたコツに気づかないとどうすればいいのか見当もつかない、というものごとがけっこうあるように思います。だれでもなにかしら、そういう知識は持っているものだと思うのですが、伝達される機会がなかなかない。というわけで、手持ちの知識からいくつか拾ってみることにします。知っている人にとっては、なんだ、というようなことばかりですが、もしひとつでも知らないことがあれば儲けもの、ですよね。
もっとも、自分が持っている知識のうちの「どれが」そういうものに相当するのかは(問題の定義からしても)なかなか気づかないので、現在以上にネタは増えないかもしれません。

鍋で飯を炊く方法

→「食べもの・日本米」内

一行化すると:米は煮えれば食える。

1999/04/23

牛丼と親子丼の手抜きレシピ

→「食べもの・レシピ -牛丼親子丼」

一行化すると:濃縮めんつゆを使う。

1999/04/23

東京の地下鉄の乗り方

一行化すると:目的地から探す。

首都圏以外の人からは「わかりづらい」と定評があるようですが、山手線の内側での移動は地下鉄がいちばん便利で、たいてい料金も安くなります。

  1. 基礎知識:東京の地下鉄には、営団線と都営線の二系統があり、路線ごとにそれぞれ重複がないように色分けされています。三田線(群青色)・新宿線(黄緑色)・浅草線(ピンク色)・十二号線(赤紫色)が都営線、それ以外は営団線です。ただし電車の車両や線路の枕木がそのシンボルカラーに塗ってあるという意味ではありません(たいてい、車両にはシンボルカラーのラインが入っていると思いますが)。乗り換えのときの案内表示板や地下鉄入り口の階段に、路線のシンボルカラーを使ったマーク(太い輪)が掲示されています。
  2. 駅の券売機の上にある路線図(兼料金表)を見ます。営団線の駅ならまず営団線の路線図を見て、それで不足なら都営線の乗り換え路線図を参照します。
  3. 目的地の最寄り駅を探します。このときついでに料金も確認しておきます。それからこれはマナーの問題ですが、券売機の前に立つより先に、必要なだけの小銭を手に持っておきましょうね。
  4. その駅に、どの路線が乗り入れているかを見ます。目的地の方を先に見るのが最大のコツです。路線名より、路線図の色で見た方が早いでしょう。
  5. 現在自分がいる駅に、どの路線が乗り入れているかを見ます。
  6. 共通している路線があれば、別に問題はありません。ただし、新宿―池袋間だけは丸ノ内線(赤色)を使わずに、いったん地上に出て山手線に乗りましょう。地図をよく見れば理由がわかります。それ以外でも、JR山手線またはJR中央線だけで行ける場合には、その方が楽です。
  7. 共通する路線がない場合、自分がいま利用できる路線(の色)を覚えておき、目的地を通っている路線(の色)を目でたどって、両者が接触する駅を探します。営団線どうしならたいてい、一回乗り換えればどの路線も利用できると思います。
  8. 名前は別々の駅でも、通しの切符で乗り換えできる場合があります。たとえば、有楽町線の有楽町駅と日比谷線の日比谷駅がそうです。路線図上では、駅をつなげて描いてあるのでわかります。このような乗り換えでは、いったん改札を出入りするようになっている場合があるので、切符の取り忘れなどに気をつけてください(直接乗り継ぎできる場合もあります)。それと、実際には乗り換えのさいにかなり歩くことになりますよ。上記有楽町駅+日比谷駅、永田町駅+赤坂見附駅、新御茶ノ水駅+淡路町駅+小川町駅、あと特に大手町駅には警戒を怠らないように。
  9. 目的地に複数の路線が通っている場合、上記の手順を繰り返してあるていどしらみつぶしに考えてみる必要があります。主要駅どうしだと複数のルートが存在することが多いし、どれが最適かは状況によるからです。
    こういうのがあるから「わかりにくい」と言われてしまうのかもしれませんが、経験上、乗り換えの回数を減らす、あるいは乗り換えのときに歩かされそうな駅は避ける、という基準で選べば、多少遠回りに見えても結果的には早くなると思います。料金は同じなんだし。
  10. 営団線と都営線の間で乗り換える場合、乗り換えの手間は営団線どうし、都営線どうしとほとんど同じですが、料金は通算ではなく別々に買うのと同じ計算なので割高になります。たとえば営団南北線の東大前駅から新宿駅へ行くときには、特に理由がないかぎり、市ヶ谷駅で都営新宿線に乗り換えるより四ッ谷駅から営団丸ノ内線を使うといいでしょう。
  11. 以上では目的地または現在地の最寄り駅を単純化して説明していますが、実際にはできるだけ詳細な地図で最寄り駅を確認した方がいい場合もあります。たとえばいま、秋葉原の電気街にいるとしたら、日比谷線秋葉原駅・銀座線末広町駅・丸ノ内線お茶の水駅のいずれを利用しても、歩く距離はたいして変わりません。お茶の水駅へ行くには相生坂を上らなくてはなりませんが。「神田の書店街」の最寄り駅は三田線・新宿線・半蔵門線の神保町駅であって、銀座線またはJRの神田駅から歩いていくぐらいなら、水道橋駅かお茶の水駅を利用した方が便利です。新宿駅もかなり広いですよ。
  12. 余談。東京の地理に慣れてきたら、上記にJRの山手線と中央線(総武線)を組み合わせて考えた方がいい場合もあります。たとえば都営三田線の白山駅から池袋駅に行く場合、地下鉄だけで行こうとするなら、いったん大手町駅に行って営団丸ノ内線に乗り換えることになりますが、地元の人間はふつう、巣鴨駅から山手線を利用しています。まあこのぐらいは、地下鉄の路線図には山手線・中央線のラインも描いてあるので、それを見ればわかると思いますが。
  13. さらに余談。これから東京に住もうというのなら、(勤め先や学校の場所にもよるでしょうが)なまじJR沿線にするよりも、営団線に乗り入れている私鉄の沿線を選んだ方が、なにかと便利ですよ。雪が降っても止まらないし。

1999/04/23

割り箸で定食や牛丼を食べるとき

最初に味噌汁に箸をつけると、そのあと飯粒とかが箸にくっつかない。

1999/04/23

ヘッドホンステレオなどの電池が切れたら

プラスとマイナスの極が交互になるように並べて手のひらではさみ、10秒ぐらい転がしてみると、あとちょっとだけ使えることがある。どういう理屈なのかよくわからんけど。

1999/04/23

キーボードだけでWindows95を使う方法

一行化すると:shift,ctrl,ALTとカーソルキー,スペースキー,Enter,ESC,Tabの組み合わせでたいていのことはできる。

グラフィック系のツールや通常のWindowsの操作体系をあまりに無視したアプリケーションは別として、マイクロソフト製品やその他のまともなソフトウェアなら、基本的なキーボード操作だけで9割がた使いこなせます。
絵を描く人はどうか知りませんが、文章入力がパソコンの主な用途である人間にとっては、なにか操作するたびにキーボードから手を離すのがひどくめんどくさいのです。腕が三本あったらマウスも便利なものなんでしょうけどね。
ここに書いた方法は、たぶんWin98やNT4でもほとんど通用すると思います。いちいち言葉で説明しているので、ぜんぶ覚えるのは面倒そうだ、と思うかもしれませんが、Tabキーはジャンプを意味するとか、わりと素直な設定で統一されているので、いくつかやってみればあとは応用が利くと思います。

1999/04/23
一部改訂 1999/08/30

風が吹くと桶屋が儲かる理由

どうやら最近は、マスコミではこの理由を明記できないようなので、知らない人もいるんじゃないかと。

  1. 風が吹くと砂ぼこりが立つ。(江戸時代は道に舗装なんかなかった)
  2. 砂ぼこりが目に入って、目が不自由になる人が増える。
  3. 目が不自由な人がおおぜいで三味線を習う。(現代と違い、当時はそれぐらいしか職業選択の道がなかった)
  4. 三味線の需要が増え、猫皮の需要が増える。(このへんもマスコミに載らない理由か?)
  5. 猫の数が減り、ネズミが増える。
  6. 増えたネズミが桶をかじる。(なぜ桶なのかは永遠の謎)
  7. 桶の需要が増え、桶屋が儲かる。

一行化すると:風が吹くと桶屋が儲かる。

1999/05/04

新暦と旧暦

1999年7の月がどうの、という話題で、「当時のフランスでは旧暦だったからまだ7月は終わっていない」という説が出てきたのはともかく、「だから新暦の8月いっぱいぐらいまで危険範囲だ」と本気で言っているらしい人をけっこう見かけ、なかには「当時は太陰暦だったから」と言っている人までいました。予言云々はともかくとして、旧暦という言葉に誤解があるようなので解説しておきます。

まず基礎知識。地球からの見かけ上、太陽は約365日で春分点の位置へ戻り、月(太陰)は約29日で満ち欠けとその位置が一周します。
太陽暦はその名の通り、太陽の運行を基準に1年の長さを決め、それを12等分して1ヶ月の長さを決めます。現在日本で使われている暦が太陽暦です。太陽暦の1ヶ月は月の運行とは一致しません。
太陰暦は月の満ち欠けで1ヶ月の長さを決め、その12ヶ月を1年とします。純粋な太陰暦では、1年の長さは太陽の運行とは一致しません。太陽暦の1月が太陰暦では年によって12月だったり8月だったりします。現在使われているイスラム暦が、この純粋な太陰暦です。だから、 断食月ラマダン の季節は年によって変わります。
日本や中国で昔から使われてきた暦は、正確には太陽太陰暦といいます。略して太陰暦と呼ばれることが多いのですが、純粋な太陰暦ではなく、季節の狂いが少なくなるように太陽年に合わせて調整されています。具体的にはときどき閏月を挿入し、1年を13ヶ月にすることで、立春が必ず1月頭に来るようにしています。閏月を決める方法は、複雑で厳密なルールに基づいています。ちなみに、春分を基準に太陽年を24等分したものが立春や啓蟄など二十四節気と呼ばれるもので、農業において太陽暦のメリットを取り入れるために補助的に使われていました。太陽太陰暦では正確に暦を決めるためにかなり複雑な計算が必要で、また何度も改訂されているのですが、最終的に使われていた(現在でも旧暦として使われている)暦では相当な精度を保っています。
上記のとおり、純粋な太陰暦は季節と月の関係が変わってしまうので、季節の変化が少ないアラブ諸国以外ではあまり使われていません。太陽太陰暦は中国でたぶん四千年ぐらい前に発明されたものですが、中華文明圏以外では使われていないようです。インカかどこかの暦がこれに近いものだったような記憶もありますが。
太陽暦は満月がいつになるのかわかりづらくて電灯のない時代には不便だったのですが、計算が単純なのと農業社会で季節を知るために便利なので普及したのだと思います。(もちろん、ヨーロッパ文明が世界を征服した影響もあります)。エジプトやメソポタミアの暦がギリシャに引き継がれ、ヨーロッパでずっと使われていました。
太陽の運行は正確に365日ではないため、純粋な太陽暦でも調整の方法を考えないと暦と季節にズレが生じます。ローマ時代に皇帝ユリウス(ユリウス・カエサルだったか同名別人の皇帝だったかは忘れた)が4年に一度閏年を作る方法を定め、これがユリウス暦と呼ばれます。このユリウス暦では1600年に12日程度の誤差があるため、中世にはかなり深刻な事態になってきました。そこで16世紀に法王グレゴリオが、100年に一度閏年を省き、400年に一度は省かない、というユリウス暦を改良したグレゴリオ暦を定めて、現在に至ります。というわけで来年(2000年)は閏年ですね。
このグレゴリオ暦が日本でも西洋でも新暦と呼ばれています。そして日本や中国において旧暦という言葉は太陽太陰暦を指しますが、西洋においてはユリウス暦を指すわけです。
あんまり調べずに書いたので間違いを含んでいると思いますが、アウトラインとしてはこういうことです。というわけで、ヨーロッパで太陰暦が広く使われていた時期というのはありません。

1999/08/07
Web上への転載 1999/08/30